(その四十九)編集

(O=マイケル・オンダーチェ、M=ウォルター・マーチ ――引用者注)


O あなたの実践的な映像編集方法について、もっと教えていただけますか。
M ショットをつなげてシーンを組み上げるという作業は、三つの重要な選択の連続なんだ。三つの選択とは、「どのショットを使うべきか」「そのショットのどこからはじめるべきか」「そのショットのどこで切るべきか」。平均的な長編映画は約千ショットから成り立っているから、約三千回の選択決定が行われている計算になるね。このとき、できるかぎり興味深くて複雑で音楽的で劇的な選択ができれば、その分だけその映画が息づくことになる。
 作品のリズムという点において、この三つの選択の中でもっとも重要だと私が思っているのは「そのショットのどこで切るべきか」なんだ。明らかにされるべきことがすべて明らかにされたその瞬間で切る。すべてを含んでいながらも、熟れすぎてはいけない。切るタイミングが早すぎると、たとえば満開になる前に花を切ってしまうのと同じで、そこに潜在している意味を出し切れない。逆に、切るタイミングが遅すぎると、花は腐敗してしまう。
O つまり、ポローニアスのなってしまう。
M そうそう! どのショットにも、そこで切るべき唯一の瞬間があるものなんだ。特定の1コマ、それの1コマ前でも後ろでもだめだよ。その1コマをどうやって見極めればいいのかということが問題なんだ。
 編集者がもっとも陥りやすい罠――私自身、エンサイクロペディア・ブリタニカ社の教育映画を編集していた若いころ、この罠にはまっていた――は、フィルムを進めたり戻したりしながら、たとえばドアが閉じられる瞬間のコマを見つけだしてマーキングし、その地点で切ることだね。この方法は確かに使えるよ。ただしベストな方法ではないし、この方法で作品を高めることはできないんだ。
 マラパルテを翻訳した私の改行のやり方が好きだと言ってくれたよね? どこでショットを切るべきかの選択は、詩を書いていてどこで改行するべきかを見極めることと似ているんだ。どこで言葉を切るのか。文法に則して切る地点を選んでいるわけではないよね。その行が満たされて熟された地点、つまり意味が存分に伝わり、リズム的に熟した地点で改行する。そうすることで、詩人はその行の最後の一語をページの空白にさらし、結果的にその言葉を強調することができる。もしそこに、二、三行つけ足してしまったら、強調したい言葉は行の中に埋もれて見えにくくなり、意味が薄められてしまう。これと非常に似たことを私たちは映画でやっているんだ。ショットを切る地点にあたる最後の1コマが、そのショットに込められた意味を深めてくれるという事実を利用してね。
 ショットを切った地点、つまりフィルムのカットポイントでは、ある画像とべつの画像が並置されることになる。それは詩のリズムにあたる。リズムや頭韻法にあたるものなんだ。ふたつの言葉やふたつのイメージを並置して衝突させることで、何かを暗示することができる。ちょうどギリシャ演劇のコロスのように、テーマを強調したり、対峙させたり、転化させたりすることができるんだ。明言することもひとつの方法だけれど、カットポイントでふたつのまったく異なった画像同士を並置することで、インパクトをあたえながら、観客に、「なるほど、だが待てよ、ここでは何か別のことも示唆しているようだぞ」という印象をもってもらうことができる。
 コツは、あくまでも自然な流れに見えるようにつなぐこと。編集を建築にたとえることもできるけれど、ふたつの空間軸で成り立つ三次元のモザイク模様にたとえることもできるね。また、人為的にひとつひとつ積み重ねて作り上げるという意味では、映画製作全体のミニチュア版ということもできる。
 どのコマを切るかを決定するためには、まず、とにかく集中して再生させたショットを見る。映像を再生させていると、フッとたじろぎを覚える瞬間がやってくるんだ。瞬きのように本能的な、思考ではなく感覚的なたじろぎだね。この、たじろぎを覚えた瞬間のコマがショットを切るべきコマなんだ。
O その瞬間にボタンを押すわけですね。またはそのコマに油脂鉛筆でマーキングする。
M ムビオラ編集機で作業していた時代は、油脂鉛筆で直接マーキングしていたね。《カンバセーション…盗聴…》からは、ショットの切るべき場所を見つけたと思ったら、もう一度カウンターをリセットしてゼロに戻し、同じ作業を繰り返すようになったんだ。適当なところまで戻ってから再生しなおして、自分がたじろぎを覚える瞬間をもう一度待ってみる。Avidで編集している最近では、その瞬間にキーを押せばいい。
O 「もう充分だ、別の画を見たい」と思った瞬間に反応するということですか。
M まさにそう。ショットというものは、ひとつの思考、もしくは複数の連続した思考を視覚的に表現したものなんだ。その思考の流れが尽きた瞬間が切るべき地点だということだね。次のショットに移行したいという衝動がもっとも高まるところで、それに後押しされるようにカットポイントを決めたい。それよりも長く保持しすぎると、衝動は袋小路に追いこまれ、次のショットに移行したときエネルギーに欠けてしまうよ。ショットに内在する思考のダイナミクスを活かしきることと、そのショットのリズム。このふたつがバランスする地点を見つけ出すようにするんだ。
 具体的には、二度続けてやっても、自分がまったく同じコマでたじろぎを感じるかどうかを確かめることが大切だね。一度目の再生でたじろいだ瞬間でマーキングする。次に巻き戻して再生し、もう一度たじろいだ瞬間で再生をストップさせる。そのコマを前回マーキングしたコマとくらべてみる。一度目ではどのコマでストップしたか。二度目はどこだったか。両方ともまったく同じコマだったとしたら、その瞬間が本当に自然な瞬間だという証拠になる。意識的に同じところを狙ってストップさせようとしても、まず不可能だよ。1秒につき24コマも画像が流れているんだからね。24分の1秒の速さで現れて消える標的に、二度連続して銃を撃ちこむのと同じことだよ。
O ところがそれができる瞬間がある、と。
M そう。できなかった場合は切らないよ。何度やってもまったく同じコマに当らなければだめなんだ。こういう人為的にコントロールできないプロセスを入れて、純粋な思考や感情、ピュアなリズムや音楽性だけで証明できることが大切なんだ。
O ということは、もしもたじろぎの瞬間が最初は17コマ目で、二度目は19コマ目に来たとしたら……。
M その場合は、まだ切る作業に移らない。何かがズレているという証拠だからね。二度とも17コマ目であれば、少なくともその結果が何かを証明してくれている。でも、最初は17コマ目で次が19コマ目だとしたら、それは私のアプローチが間違っているということになる。そのショットへの解釈が違うんだろうね。そこで「何が違うのだろうか」と自問してみる。「もっと時間をかけるべきだったのかもしれないな」「このシーンに登場する女優がコートを脱いだという事実を観客が吸収できるまで待っていなかったのかもしれないな」「彼女はセリフを言っているが、コートも脱いでいる。あのセリフも思考だけれど、コートを脱ぐという動作も思考の表現だったのではないだろうか」などと考えを巡らせるんだ。
「セリフの意味とコートを脱ぐことの意味を両方とも観客が理解して味わうには、それになりの時間が必要だろう。それだけの時間をとらなければいけない。いままではセリフだけにとらわれてコートのことを無視していた。よし、今度はセリフとコートの両方を意識して切ってみよう。……なるほど、26コマ目か。もう一度試してみよう。おお、今度もズバリ、26コマ目じゃないか! オーケイ、いいぞ。ここがカットポイントだ。ここに決めよう」という感じかな。
 この作業は、私の編集作業の中でもっとも重要なものだよ。独自の編集方法のうち、どれかひとつの側面を後世に残さなければならないとしたら、どんなタイプの編集者であれ、この方法でやってみるべきだと私は信じているんだ。そのほかの部分についてはどんなアプローチだろうと構わないけれど、これだけは譲れないね。
 この方法をとることのすばらしい利点は――編集者にとっては奇蹟のように出来すぎているとさえ思うんだが――どうすべきかについての要領を短時間のうちに掴めるようになることだよ。しかも、取り組んでいるそのショットや映画作品についてだけでなく、自分自身の編集者としての能力も鍛えられるんだ。編集者にとってカットポイントを選ぶ能力は、バイオリン弾きにとっての表現力にあたるね。弓の操作技術はすでに身についているけれど、技術を向上させて、どんな曲でも達人のように奏でたい。自分なりのタッチやトーンをそこに息づかせたいんだ。
 先ほどの例のように、一回目で17コマ目をマーキングしてから、次に19コマ目を選んでしまった場合、私はきっとその瞬間にその事実を悟れると思うな。19コマ目を選んだ瞬間に、「ああ、今回はちょっと遅めだったかな」と感じているはずだよ。そこでカウンターを見ると、その遅れが「2コマ分」だったことが確認できる。このとき私は、そのショットにおける、2コマ分、つまり12分の1秒遅れた感覚を体感できたことになる。このショットにおける12分の1秒の感覚を体の奥底に刻みこむことで、私は確実に何かを学んでいるんだ。
 こういう作業をしているとき、私は一貫して演者のリズムとカメラのリズムを意識する。演者の口調や抑揚、身体の動き、さらにはカメラの動きや静止のあり方、そのすべてのテンポを自分の中に取り入れたいんだ。作業しながら、時間を惜しまずにそういったことを意識することで、ようやくその作品特有の映画言語を理解して消化吸収することができるようになる。「このシーンはどんなリズム特性をもっているのか」ひいては「この映画はどんなリズム特性の作品なのか」がわかってくるんだ。


マイケル・オンダーチェ『映画もまた編集である――ウォルター・マーチとの対話』吉田俊太郎 みすず書房 二〇一一年六月二二日発行 〜二九九頁