(その百十五)フェルディシチェンコ

 それは年のころ三十ばかりの、背丈の低くない、肩の張った、赤毛の大頭の男であった。その肉づきのいい顔は赤らみ、唇は厚く、幅広の鼻は低く、小さなどんよりした眼は皮肉の色を浮かべて、まるでひっきりなしに瞬きしているように見えた。全体的に見て、これらのものは、かなり厚かましい感じを与えていた。身装りは薄ぎたなかった。
 彼ははじめ首を突っこむことができるだけドアをあけた。突っこまれた首は五秒ばかり部屋の中を見まわしていたが、やがてドアがゆっくりと広くあいてきて、全身がすっかり敷居の上にあらわれた。しかし、客はまだはいろうとしないで、敷居のところから眼を細めながら、なおもじろじろと公爵をながめまわしていた。ようやくうしろ手にドアをしめると、そばへやってきて、椅子に腰をおろした。それから、公爵の手をかたく握りしめ、自分のはすかいのソファに相手をすわらせた。
「フェルディシチェンコです」まるで問いかけるように、じっと公爵の顔を見つめながら、彼は口をきった。
「それがどうかしましたか?」公爵は笑いだしそうになりながら答えた。
「下宿人ですよ」相変らず相手の顔をじろじろながめながら、ふたたびフェルディシチェンコが言った。
「近づきになりたいんですね?」
「いや、とんでもない!」客は髪をかきむしって、溜息をつきながら、言った。そして、眼の前の片隅をながめはじめた。「お金をお持ちですか?」ふいに公爵のほうを向いて彼はたずねた。
「すこしばかり」
「じゃ、どれほど?」
「二十五ルーブル
「見せてくれませんか」
 公爵はチョッキのポケットから二十五ルーブル紙幣を取りだして、フェルディシチェンコに渡した。相手はそれをひろげて、つくづくとながめていたが、やがて裏返しにして、光りにかざした。
「かなり変ですなあ」彼は考えこむような風情で言った。「なんだってこんなに赤っ茶けてくるんでしょうな? この二十五ルーブル札は、どうかすると、おそろしく赤っ茶けていることがあるんです。ところが、他の札は、それと反対に、まるっきり色がさめてしまうんですから。さあ、しまってください」
 公爵は自分の紙幣を取りかえした。フェルディシチェンコは椅子から立ちあがった。
「私はあらかじめあなたに警告しにあがったんですよ。第一に、決して私に金を貸してはいけません。なぜって、かならず無心するにちがいないんですから」
「わかりました」
「あなたは支払いをなさるおつもりですか?」
「そのつもりです」
「ところが、私はそのつもりがないんです。じゃ、どうも。私の部屋はこの部屋から右手のいちばんとっつきですよ。見たでしょう? 私のところへはしょっちゅういらっしゃらないように。私のほうでときどきあがりますから、ご心配なく。将軍に会いましたか」
「ええ、もちろん」
「それじゃ、いまに見たり聞いたりしますよ。おまけに、将軍は私のところへまでお金の無心にくるんですから! Avis au lecteur. じゃ、失礼します。それにしても、フェルディシチェンコなんて苗字を名のって生きていけるもんですかね、え?」
「なぜいかれないんです?」
「じゃ、失礼」
 そう言って、彼はドアのほうへ歩いていった。この男はまるで義務ででもあるかのように、その奇抜さと陽気さでみなをおどろかすのを自分の仕事にしているのだが、彼のそうした試みはなぜか決してうまくいったためしがないことを、公爵もあとになって知った。一部の人びとにはかえって不愉快な印象すら与えていた。そのために彼はすっかりしょげてしまうのであったが、それでも相変らず自分の主義を放棄しようとはしなかった。戸口のところで、中へはいってこようとした一人の男に突きあたって、彼ははじめてわれに返ったらしかった。公爵にとって未知の新しい客をやりすごすと、彼は幾度か用心するようにと公爵に眼配せをしてみせたが、そんなことをしながらも、ともかく毅然とした態度を失わずに立ちさっていった。


ドストエフスキー『白痴』上巻 新潮文庫版 木村浩訳 新潮社 昭和四五年一二月三〇日発行 一七二〜一七五頁