(その百十一)高貝光則

 一九七〇年に入って秋田県の出稼ぎ労働者の数が六〇〇〇〇人を越えたとき、そのひとりであった高貝光則の労働時間は月に五〇〇時間の大台に乗るかに思われた。二四時間と三六時間のシフトを繰り返し、床につく時間を二時間に削って眠りながらベルトコンベアーのまえに立ちつづけた。光則の浅黒い皮膚には工場の騒音がゆっくりと滲みこみ、肩の張りは猪首を一層目立たせ、がに股の脚はつねにもう片方の脚をいたわるように全身の重みを斜めに受けとめた。寮の万年床は硬く、瞬間圧力釜で炊いた米は消化にわるく、つかの間の休憩時間は耳にのこる騒音を鎮めてはくれなかった。だが、かれの目標を阻んだのは、そのような労働条件ではなく、ともにはたらく仲間たちだった。光則の長期労働によって貴重な労働時間をうばわれ、そのミスの少ない堅実な仕事でノルマの引き上げをこうむったと思った仲間たちは、腹いせに光則が長く働けないようにしたのだ。その工場では、通常の勤務形態は一二時間勤務の昼夜二交代制だった。残業は常態化していたために、各自が四時間から六時間余計に働くことはしょっちゅうだった。そのため、昼勤で週六日シフトを入れた場合、朝の六時から深夜一二時まで働き詰めの仕事から解放された彼らの休息は六時間もなかった。帰っても一杯飲み屋に立ち寄り、万年床に倒れるのが席の山。それだったら、もっと働いて金を稼ぎたいと思った出稼ぎ労働者と、工場を経営する雇い主の思惑が幸福にも一致した結果、病欠の代理勤務という案が考え出された。その勤務形態によれば、一二時間勤務を終えたあと、架空の病人の代わりにもう一二時間働くことが許されたのだ。もし、昼勤と夜勤が交互にくるシフトを組んで、隔日で病欠代理勤務を受け入れた場合、朝の六時から翌朝の六時までたっぷり丸一日働いたあとに休める時間は、次の夜勤の開始時間の夜六時までの一二時間であり、通常の昼勤固定勤務よりも六時間も多い。その六時間余分に取れる休息は、一二時間多く働く価値があるものだった。仮に昼勤固定で隔日病欠代理勤務を受け入れた場合は、通常の一二時間と病欠分の一二時間、さらに翌日の通常勤務が一二時間と合計三六時間も働くわけだが、代理勤務のときは残業がないので(織り込み済みの余分な労働と、常態化していたとはいえいつ終わるともしれない残業では、疲労の度合いもまるでちがったから、考えようによっては病欠代理勤務は残業ではなかったのだ)、いずれにしても半日休めるのは魅力的だった。なによりも金が稼げるのだ。こうして光則が働く工場では、残業が確実な十二時間勤務よりは、むしろ二四時間や三六時間労働のほうが人気があった。光則の月間目標五〇〇時間の達成は、より多く休むために多く働くという集団的な倒錯によって阻碍された。仲間たちは光則のささいなミスを班長に抜け目なく報告し、休憩時間に我先に硬い長椅子を占領して光則を坐らせなくした。班長は光則を観察し、彼が報告書に記載されてあるようなミスをくり返し、「労働工学」的に理にかなった休憩時間で有効に疲労を発散できないのは彼の年齢のせいであると判断し、病欠代理勤務を認めない旨を通達した。こうして「たったの一六時間」しか働けなくなった光則は、目標にわずか二〇時間届かなかった。あと二四時間勤務を四回余計に入れていたら達成できた数字だった。光則はだれよりも長く働いたが、同時に七〇歳を越える最古参の出稼ぎ労働者だった。若いころは厳寒の地で樵やハタハタ漁をくぐり抜けてきた肉体は、わずかな皮膚のたるみをのぞけば働くのに必要なすべてを備えてあまりあった。光晴がなによりも同僚から煙たがられたのは、その頑強な肉体だった。コンベア労働は単調な割に危険が多く、ちょっとした気の弛みが大きな事故につながった。労働環境も最悪だった。多くの労働者はブラウン管テレビに必要なガラスのパネル面がラップマシンから研磨されてはじきだされたときにたち昇らせる茶色い蒸気に慣れることができなかったし、ファンネルの研磨は重労働で、工場内には鼻をつく研磨剤の霧と粉塵が舞っていた。そのころカラーテレビのネック管と呼ばれるバルブに用いられていた鉛は、白黒テレビにも使われるようになっていた。ヒューム状になった鉛の害の噂は絶えなかったし、カルシウム・エチレン・ダイミアン・テトラアセティック・アシッドなる長い名前の錠剤が公害の抑制に効果のあることが仲間内で耳打ちされたりした。このような劣悪な状態で働く労働者たちは、自分の労働期間を刑期と呼びさげすんでいた。出稼ぎ労働者たちは、雇用期間が終わったらこの粉末ガラスの飛び交う牢獄から解放される。それが正規雇用の労働者にはねたましかった。なにより、このような環境で年金暮らしになるまで働くことが可能だとは、だれにも思うことができなかった。休憩までのたった三〇分ですら、指折りそれしか考えられないほど長く感じるのに、どうしてあと四〇年も働くことができようか。こうして光則は、同じ出稼ぎ労働者からも本採用の労働者からも反感を買った。誰もが弱音を吐きたい状況で、やがて手にするわずかな休息や降りかかる理不尽さを糧におのれを奮い起たせることもなくただ黙々と働く人間の存在は不快だった。光則はあまりに頑丈すぎたのだ。一五〇日間の契約で光則が完全な休暇として休んだのは六日にすぎなかった。任期が終了するときですら、再契約して今度こそ目標の月産五〇〇時間を達成しようと気ままに考えている光則は、ある意味で無謀な生産目標を掲げる会社の姿勢そのものだった。工場で働く人間たちは、生産目標を身をさいなむ鞭としか思っていなかったから、光則の前向きなすがたは癇に障った。再契約して一週間経った午前二時に、休憩時間が終わってもコンベアーのまえにすがたを見せないのを不審に思った同僚によってかれの死体が発見されたとき、周りの労働者たちが感じたのはある種の解放感だった。この世に止まらないものはない。この工場の狂ったような生産目標ですらそうであってほしい。そう思った労働者はしゃかりきに働いていた同僚の訃報に思わず安堵のため息をついたが、彼が実際に死体を目撃したわけではなかった。工場と寮のあいだにある通用門の警備員をのぞけば、工場内でも光則の死体を見たのは五人しかいない。長椅子の隅で額を背もたれに沈めた光則の顔は、脳溢血の進行ですでに無惨に変形していた。発見者である同僚は、いったんベルトコンベアーのまえに立ち、板ガラスの研磨作業を再開してカラーテレビ月産一〇〇〇〇〇台の工場目標にわずかな貢献を果たした。三〇分後に同僚から伝え聞いた班長は、自身の出世街道を阻む年配の老人の死を嘆いて、冷徹な事務処理を敢行した。死後硬直のはじまった高貝光則の死体は口を割らない三人の正規雇用労働者によって寮に運び込まれ、検死した医師の診断が決め手となり病死と認定された。こうして事故死による労災を下ろさずにすんだ会社は班長の英断の結果を賞揚し、彼を工場長に昇格することを厳かに通達した。光則の死体を発見した同僚は本採用に昇格(しかし辞退)、死体の運搬を手伝った三人の労働者たちは、統一が進む労働組合のなかでひとかどの意見をもつ人物として一目置かれる存在となった。やがて工場長となる班長はさいごの汚れ仕事を始末するために光則の実家に向かい、線香を上げる時間も惜しむように見舞金をわたして誓約書に署名を求めた。光則の家族はよく見もせずにサインし、かんたんな密葬をすませて浮かせた見舞金を孫の大学入学資金に充てた。誓約書にはあらゆる訴えを封じる文言があらかじめ書き記されてあったが、家族はその文章を一行しか読まなかった。それによると、会社は誠意を尽して工場の発展に貢献した高貝光則を深く悼んでいるとのことだった。本人はおろか、家族にとっても死は向こうの出来事でしかなかった。会社にとっては働きにきただけの労働者にすぎない光則は、家族にとっては最後まで金を送ってくる遠い存在にすぎなかった。高貝光則は、死ぬまで働きつづけた。