(その四)山師

 少なくなってきた家産を盛り返すために、鉱山に手を出した。カーキ色コールテンの猟服をつくって、腰に鳶口の子供のような石割をぶらさげ、売りかたの技師に案内されて、群馬や福島の境の山また山をみてあるいた。三日で二十五里も歩いてへとへとになりながら、不死身のような鉱山技師のあとについていった。
「この下は、みんな満俺ですよ。そうですね。ことによると一千万噸位あるんじゃないかとおもいますよ。そうしたら……」
「そうしたら……」と僕もいっしょに勘定した。たちまち三井・三菱につぐ財閥だった。売り主は百姓だった。百姓といっても、農事は蹴ってしまって、露頭をさがしあるいて、出願したものを、亡者どもにうりつけるのが商売ののらくらものだった。そういう連中が上野の駅前の旅館に何人となくごろごろしていた。みんな鉱区図をもって、いい客をまち、うれるまでは、高い旅館代をためて、頑張っているのだった。
 群馬県鹿沼からはいった山地で、仕事をはじめることにした。金の取引がすむと売り方の百姓たちが、いなかの遊郭のようなところへ僕を招いて、飲めや唄えの大騒ぎをした。それから飯場生活がはじまり、朝は葱の味噌汁、昼晩は、塩秋刀魚と判でおしたようなおなじ食事が一ヶ月もつづくと、そろそろ辛抱ができなくなった。ダイナマイトに火をつけるのも僕がやったし、夜は、ダイナマイトといっしょに寝た。秋口から冬のはじめにかけて、あの辺は冷気がきびしきった。柿の実がみごとになった。鉱石は出ることは出たが、まざりものが多く、選鉱して、積出すと、運賃とさし引いて、採算が合わなかった。
 一九一八年、僕が二十三歳の年もくれると、鉱山の仕事もおよそ先が知れてきた。この仕事で金を失ったばかりでなく、その他にえたものといったら、百姓たちの奸智と、陋劣さを知ったこと位だった。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 216〜218