(その四十五)初稽古

「坊や、二階へ上がれ」
 談志は突然そう云うと、留守番電話にメッセージを吹き込みはじめた。
「談志です。今、弟子に稽古をつけてます。初めての稽古なので電話に出られません。一時間ほどしたら改めて電話をください」
 僕を見て、
「そういうことだ」
 と云うと二階の和室にドッカと腰を下ろした。
「君も落語家を志すくらいだから、落語のひとつやふたつくらいはできるだろう。どんな根多でもいいから、しゃべってごらん」
 と云った。
   (中略)
「まあ、口調は悪くねェナ。よし小噺を教えてやる。えー、昔から、三ぼうと申しまして、泥棒、つんぼう、けちん坊、この三つの噺をしておりますと、お客様にお差し障りがなくてよいとされております。なるほどその通りで、いくら泥棒の悪口を云ったところで文句を云われる心配はございません。けちな方は寄席へ落語なぞ聴きにおいでになりません」
 淡々とした口調で、談志は、三ぼうの小噺をはじめた。けちの小噺をふたつ、泥棒は三つ。聞いて圧倒された。高座とは全く違って、声は一切張らない。ただ、ボソボソしゃべっているだけだ。普段の談志のようなギャグもないのに、笑いをこらえるのがつらくなるほど面白い。正直に云うと、漫談以外でこんなに面白い談志を見たことがなかった。ショックだった。プロってこんなに面白くできるのに、高座では小噺を演る談志なんて一度も見たことがない。一体この人には、いくつ芸の引き出しがあるのだろう。
 十分ほどしゃべって、談志は云った。
「ま、こんなもんだ。今演ったものは覚えんでもいい。テープも録ってないしな。今度は、きちんと一席教えてやる。プロとはこういうものだということがわかればそれでいい。よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ。教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ。いいか、落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ。それが基本だ。ま、それをクリアする自信があるなら今でも盗んでかまわんが、自信あるか?」
 と云って談志はニヤッと笑って僕を見た。鳥肌が立った。
「それからな、坊やは俺の弟子なんだから、落語は俺のリズムとメロディで覚えろ」
  (中略)
 三ぼうの稽古から数日後、僕は浮世根問という前座話を教わった。基本中の基本のこの噺は、登場人物が御隠居さんと八っつあんの二人しかいない。場面転換も少ない。右見て隠居さん、左見て八っつぁんとスラスラしゃべる。これで落語のリズムとメロディを徹底的に覚える。意外に思うかもしれないが、談志の稽古は教わる方にとってはこの上なく親切だ。お辞儀の仕方から、扇子の置き方まで教えてくれる。
「これは談志の趣味だがお辞儀は丁寧にしろよ。きちんと頭を下げろ。次に扇子だが、座布団の前に平行に置け。結界と云ってな、扇子より座布団側が芸人、演者の世界、向こう側が観客の世界だ。観客が演者の世界に入ってくることは決して許さないんだ。たとえ前座だってお前はプロだ。観客に勉強させてもらうわけではない。あくまで与える側なんだ。そのくらいのプライドは持て。お辞儀が終わったら、しっかり正面を見据えろ。焦っていきなり話しだすことはない。堂々と見ろ。それができない奴が正面を切れないと云うんだ。正面が切れない芸人にはなるな。客席の最後列の真ん中の上、天井の辺りに目線を置け。キョロキョロする必要はない。マクラの間に左、右と見てゆくにはキャリアが必要なんだ、お前はまだその必要はない。大きな声でしゃべれ。加減がわからないのなら怒鳴れ。怒鳴ってもメロディが崩れないように話せれば立派なもんだ。そうなるまで稽古をしろ。俺がしゃべった通りに、そっくりそのまま覚えてこい。物真似でもかまわん。それができる奴をとりあえず芸の質が良いと云うんだ」
 十五分の浮世根問を覚えるのに一か月かかった。正直云うと自分は落語家に向いていないのではないかと悩んだ。本気で辞めようかと思った。十五分の落語一席覚えるのに一か月かかるということは、一時間の芝浜を覚えるにはどれほどの時間がかかるのかを考えたら、怖くなったし、嫌ンなった。 

談春
「はい」
 談志は二人きりの時は、坊やと呼ぶことがほとんどだったが、他に誰かいると必ず談春と呼んだ。仕事帰りのタクシーの中、何故かいつも談志は助手席に乗る。後部座席には僕とめずらしく志の輔がいた。
「お前、浮世根問覚えたのか」
「はい、覚えました」
「しゃべってみろ」
 驚いた。タクシーの中なのにしゃべれと云う。とにかくはじめる。
「落語の中に出てまいります人物を申しますと、八っつぁんに熊さん、横丁の御隠居さん。馬鹿で与太郎。人の良いのが甚兵衛さん、若旦那の徳さん……」
 演りずらいことこの上ない。助手席に乗っている談志の後頭部に向かって必死にしゃべってはいるが、不安でたまらない。助けてほしくて横を見るが、志の輔はうつむいて目を閉じている。一番驚いたのは運転手だろう。バックミラー越しにものすごく不安そうな顔で僕を見つめている。やい、運転手、気持ちはわかるが、とりあえず前を向け。僕が一番心細いんだ。
「今日は」
「おや、八っつぁんかい。まあまあお上がり」
「どうも御馳走様です」
「何だい、その御馳走様とは」
「語尾を呑むな!」
 談志が大声で怒鳴った。運転手が飛び上がる。
「はい」
「御隠居さんは何ですね。毎日そうやって本ばかり読んでますが、本を読むてェと儲かるんですか」
「儲かるということはないが本を読むと世間のことが明るくなる」
「電気やなんかいらなくなる」
「そうじゃない」
「語尾を呑むなと云ってんだろう!!」
 運転手が心の底から迷惑そうな顔をしている。
 そのあとは談志は何も云わず黙って聴いていた。横の志の輔は死んじゃったんじゃないかと思うくらい静かに目を閉じてうつむいたままだった。どうにか最後まで演り終えた。と思ってホッとすると、談志が絶叫した。
「よーし。それでいい。よく覚えた。坊や、お前は何も考えなくていい、そのまま、片っ端から落語を覚えていっちまえ! 良い口調だ。今度は道灌を教えてやる」
 と云ったあと、
「どうだ、運ちゃん面白かっただろう」
 と云ったが、運転手は曖昧に笑うだけだった。
 単純と云えば単純だが、天下の立川談志に誉められた十七才の少年の心境を想像してほしい。得意の絶頂である。
 必死に稽古して良かった。自慢じゃないが、浮世根問なら、談志がブレスを入れる箇所まで再現できる。この調子だ。事実、談志は云った。お前はそのままでいいと……。僕は落語家として生きてゆける。
 後年、酔った談志は云った。
「あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん、と思うことがあるんだ」
 この言葉にどれほど深い意味があるのか今の自分にはわからないのだが、そうかもしれないと思い当たる節はある。
  (中略)
 歯みがきを終えた談志にお茶を出した。
「いやお茶はいい。二階へ上がれ」
 和室へ入ると、
「道灌の稽古をつけてやる」
 と云った。その日前座が僕をふくめて四人いたが、
「他の奴等はいい。気にするな。集中しろ」
 と談志は道灌を語りはじめた。他の前座が集まって、廊下で正座をして、耳をそばだてている気配がする。居心地が悪かった。
「春、他の前座から聞いたが、師匠、歯みがきのあと、すぐに道灌をやってくれたって。そりゃ大したもんだ。期待されてるぞ、頑張れ。期待を裏切るようなことをすると、とんでもないことになるから、とにかく頑張れ」
 と云ってくれたのも志の輔で、この兄弟子に誉められたことは特別に嬉しかった。芸歴は一年半しか違わないが年はひと回り上の志の輔は、考えてみれば彼が師匠でもおかしくないほど大人で、大人に誉められるということが何より自信につながるほど、僕は子供だったのだろう。それに志の輔は他人を誉めたり、励ましたりするのが上手だった。
 道灌をクリアすると、次の稽古は狸だった。
 登場人物が、御隠居さんと八っつぁんの二人だけ、スラスラとメロディでしゃべればよかった浮世根問、道灌は第一段階。狸には仕草や動物を演じるための形が入ってくる。なかなか上手くいかなかったが、一日も早く覚えることがやる気の証と思い込んだ僕は、セリフを叩き込んで、狸を談志に聴いてもらった。
 聴き終わって、談志は頭をかかえ込んで、ウーンとうなったあと、ちょっと待ってくれ、と考え込んでしまった。
 とてつもなく長い沈黙と僕は感じた。
「あのな坊や。お前は狸を演じようとして芝居をしている。それは間違っていない。正しい考えな方なんだ。だが君はメロディで語ることができていない、不完全なんだ。それで動き、仕草で演じようとすると、わかりやすく云えば芝居をしようとすると、俺が見ると、見るに堪えないものができあがってしまう。型ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。どうだ、わかるか? 難しすぎるか。結論を云えば型をつくるには稽古しかないんだ。狸という根多程度でメロディが崩れるということは稽古不足だ。語りと仕草が不自然でなく一致するように稽古しろ。いいか、俺はお前を否定しているわけではない。進歩は認めてやる。進歩しているからこそ、チェックするポイントが増えるんだ。もう一度、覚えなおしてこい」

 現在の自分がこのエピソードを振り返って感じる立川談志の凄さは、次の一点に尽きる。
 相手の進歩に合わせながら教える。
 掛け算しかできない者に高等数学を教えても意味がない、ということに僕は頭ではわかっていても身体が反応しない。教える側がいずれ通る道なのだから今のうちからと伝えることは、教えられる方には決して親切なこととは云いきれない、ということを僕は自分が弟子を持ってみて感じた。混乱するだけなのだ。学ぶ楽しさ、師に誉められる喜びを知ることが第一歩で、気長に待つ、自主性を重んじるなど、お題目はいくらでもつくが、それを実行できる人を名コーチと云うのだろう。
 しかし、こっちは教えることが商売じゃない、とも云える。一生かけて、芸人を志す覚悟を本気で持っているなら、それくらいの師のわがままをクリアしてこいと叫ぶ自分もいる。
「先へ、次へと何かをつかもうとする人生を歩まない奴もいる。俺はそれを否定しない。芸人としての姿勢を考えれば正しいとは思わんがな。つつがなく生きる、ということに一生を費やすことを間違いだと誰が云えるんだ」
「やるなと云っても、やる奴はやる。やれと云ったところでやらん奴はやらん」
 弟子を集めて談志はよくこう語る。そして最後につけ加える。
「まあ、ゆっくり生きろ」
 そう云われることに恐怖を感じ、そんなまとめ方で話を終えられる談志に疑問を持った。やらなきゃクビだ、と脅してでも前に進ませるべきではないのか。本当は弟子は皆、上手くなってほしい、売れてほしいと思っているはずで、それが証拠に行動しない弟子達を、
「落語家になった、談志の弟子になれたということで満足している奴等ばかりだ。俺はライセンス屋じゃねェ」
 と云っているのだから。

立川談春『赤めだか』扶桑社 二〇〇八年四月二〇日発行 六〇〜七四頁