(その四十四)リングイン

 ジャイアント馬場は常人離れした大きさという絶対的な記号を持っていた。だが猪木の体格は、外国人レスラーの中に入ってしまえばむしろ小柄な方だ。
 強さは身体の大きさに比例する。だから大きな馬場は小さな猪木より強いと人は見る。猪木はその常識を覆すためにありとあらゆる努力をおこなった。
 練習は一日たりとも欠かさない。移動時は常に大きなトランクを2つ持ち運んだ。そのうちのひとつはすべて練習用具で埋まっている。バーベルのかわりに引っぱり運動を行うためのゴム、柔軟および腹筋運動をする時に使うマット、腕立て伏せ用の木製器具等だ。
 地方に遠征しても、猪木は自分の気が済むまで走り、エキササイズを怠らなかった。腹が出ない。臀部が下がらない。腿の筋肉が落ちない。すべて節制の結果だった。
 観客の眼に触れるディティールにもこだわった。レスリングシューズのひもを試合のたびに真っ白な新品に替えさせた。かつては黄色やオレンジなどカラフルだったパンツも、いつしか黒一色に変わっていった。ファイティングポーズ写真を撮る時は、少しでも大きく見えるように両足の踵を上げ、脇を絞めて実践の緊張感を出し、指先には常に力を込めて豊かなニュアンスを生み出した。
 リングに入る時も普通にロープをまたいだりはしない。セカンドロープを両手で持ち、軽くジャンプして、走り高跳びのベリーロールのようにトップロープとの間に身体を滑り込ませる。まず右足が着地し、左足がその一瞬後に着地してからもそのまま回転運動は続き、コーナーを向いていた猪木の顔がリングの中央を向く。猪木はその瞬間に片手を突き上げ、観客が声援を送るタイミングを作り出すのだ。
 リングアナウンサーのコールを待つ間、首にタオルを巻いたガウン姿の猪木はずっとコーナーを向いている。テレビカメラを映し出すのは「闘魂」と染め抜かれたガウンの背中だけだ。表情は見えない。そして自分の名前がコールされた瞬間、猪木はガウンのベルトの結び目をサッと解いて両手を上げる。観客および視聴者は、そこで初めて猪木の鍛え抜かれた胸を見ることになるのだ。

柳澤健『1976年のアントニオ猪木文芸春秋 二〇〇七年三月一五日発行 五二〜五三頁