(その一)シチョウ

 ふと見ると、細面の、スッキリとしたいい女が人込みの中に立って、あっちこっちを心もとなげに見まわしていた。そのただならぬ様子に釣られて、一人立ち二人立ち、彼女のまわりに次第に人垣を作って行った。彼もその一人だった。
 若いのに、櫛巻に結って、年よりは地味な格好をして、着物の着方も、帯の結び方も、無造作で、お白い一つ付けていなかった。万事投げやりな格好が、きれいに手を尽した姿よりも何倍美しいか知れなかった。それでいて、所帯にやつれたというのでもない。そんなところは微塵もなかった。溌剌としていた。お化粧も、おしゃれも、みんな我から捨てた美しさ、手を抜いた美しさ、そんな風情があった。万人向きではないが、特殊な人には、こたえられないくらい魅力があった。
 名を先に云ってしまおう。おしんと云う。人が彼女のまわりに十五六人集まったのを見ると、遠くの方を見まわすーー巡査を警戒する動作をやめてしまった。しかし、ニコリともしず、相変らず無愛想な表情を改めなかった。この無愛想なのが、かえって人の好奇心をそそる手だった。
 おしん昼夜帯の間からいつそれを抜き出したのか、蒲焼の竹の串ーーあれよりももっと手のツヤで琥珀色に透き通ったのを三本手に持っていた。
 どの一本に、赤い紐が結わい付けられて、五寸ほどたれている。あとの二本は素のまま。
 この三本の串を、お客の前へ出して見せて、ここで初めておしんは口を開いた。
「よく見ていて頂戴」
 左の指で、形よく扇型に三本の串を開いたのへ、右からスンナリ伸びたいい形の指がきて、
「よくってーー」
 チョイ来りやのチョイ、口の中で小さく調子を取りながら、三本の串の位置の入れ替えをする。
「これでいいの」
 そう云いながら、いい形に開いた三本の串を、そのままズイと客の鼻先に突き付けて、
「一本引いてごらんなさい」
 客が手を出すよりも前に、彼女のよくしなう指が素早くその一本をツイと抜いて見せる。ズルズルと赤い紐が付いて行く。
「ね、この紐の付いた串を引いた人が当りーー」
 そう云いながら、黒目の張りある若い目でいっぺんズーイとお客全体を見渡す。
「幾らでもいいわ。と云って、一銭ニ銭じゃ困るけどーー・五銭出した人が、この赤い紐の付いた串を引き当てれば、十倍になってお手もとへ返るのよ。十銭なら一円、二十銭なら二円、一円なら十円ーー」
 一ト息ついて、
「悪くないでしょう、十銭で一円になればーー。今夜これからタップリ楽しめるわ。まさか人力を飛ばして吉原へ繰り込むのは無理だけれどもーー」
 そんなませたことを口にして、ニッコリ、声のない笑顔を見せた。ツーンとした顔が、笑顔にくずれる時の甘さが、ゾクッとするほどよかった。面白くなって、朝太郎が、
「ハハハ」
 と、声を出して笑ってしまった。わざと、侮られまいとして、この女は老けた作りをしているが、いいとこ、二十歳の上を幾つも出てはいまい。そう思ったら、彼はなぜかおかしくなったのだ。
 一歩前へ出ると、彼は十銭出して、おしんの顔を酒の力で穴の開くほど見守った。
「兄さん、こっちよ」
 チョイ来たりやのチョイ、串を移動させながらからかってきた。
 目を落とすと、目の前にピーンと鋭く串が鶴翼の陣を張っていた。きれいな爪をしていやがる。爪の付け根にホンノリ三日月がのぞいている。そこの甘皮の薄さ。朝太郎はそんなところを見ながら、無造作に真中の一本を引いた。
「お見当違いーー」
 両方掛けてそう云いながら、おしんは左の手を開いてユックリ手の中を見せた。赤い尾を引いた串が、そこに残っていた。開いた手の中が、何か美しい貝の中を見るようにハッとするほど奇麗だった。とても肉感的なものを、どうしてか彼は感じた。
「もう一度ーー」
 彼はまた十銭張った。が、それも取られた。立て続けに、十五六たび張って、全部取られた。一度など、真中のを引くと見せて、とっさに右の端のへ変換えした。
「ずるいわ」
 そう云いながらも、彼の手に来たのは素の串だった。二円ほど巻き上げられた時、
「兄さんは中入り。外のお客の邪魔しないでーー」
 それっきり、振り向いてもくれなかった。彼は面白いと思うと、トコトンまで窮めたくなる癖があった。英語が、それでモノになった。もしフランス語を習う機会があったら、あの動詞の変化の複雑さにイヤ気がさして投げ出すか、それとも英語以上の興味を寄せたことはなかったが、この「シチョウ」ばかりには初めて見て初めて熱を上げた。
 その熱がカゼのように外のお客に移って、おしんの餌食になる亡者があとからあとから出て来た。人垣はふえる一方だった。
 しかし、何商売にも汐時というものがある。見切りをつけて、おしんは竹の串を帯の間にしまい掛けた。場所を変えようというのだ。
「もう一度だけ僕に引かせてくれたまえ」
 長い間振り向いてもくれなかった彼女の前に、朝太郎は体を持って行った。
「ダメよ、ソロソロおまわりさんの目が光り出すころよ」
「だから、もう一度だけーー」
 相手の云うことなど耳にも掛けず、彼はだだっ子のように自分のことばかり云い張った。
 突然、おしんが胸を寄せてきたと思うと、
「お金を掛けないでーー」
 生暖かい女の息が、彼の耳にささやいた。
 チョイ来たりやのチョイ、二人は改めて向かい合った。暗示のようなものが彼の指に、一番左の一本をつかませた。
 勢よく引くと、スルスルと赤い紐が付いてきた。
「大当りーー」
 おしんは聞かせにそう云って、あとは彼にだけ聞こえるように、
「これで気が済んだでしょう?」
 上目使いに、内証で笑って見せた。子供扱いにされたような気がして、彼は、
「済まねえよ」
 スーッと光彩を納めて、普通の女になって人垣を出て行くおしんにからんで行った。
 彼女は一ト晩に四カ所ほど、場所を変えて店を開いた。そのつど、朝太郎はイの一番に客になった。おしんの商売は、やらずぶったくりで、赤い紐の付いた串を引いた客は一人もいなかった。
 しかhし、それでは余り愛嬌がなさ過ぎるのを、おしんも知っていた。で、時々前の方へ出て見ている子供の前へ、串を出して、
「坊や、引いてごらん」
 笑顔で引かせた。そんなとき、子供は必ず赤い紐の付いた串を引き当てた。
「あい、御褒美ーー」
 おしんは愛想よく一銭玉を二つ、さも倍にして返すように手のひらに載せてやった。
 朝太郎は、彼女の妙技に酔ったのか、不思議な彼女の美しさに引かれたのか、恍惚とした心持で最後まで付いてまわった。おしんはいついかなる時も遠慮会釈なく、彼から掛け金を巻き上げた。
 次のような点にも、彼は魅力を感じていた。彼女が、巡査の目を恐れるようなシグサで客を集める。それまでは貧しい一人の所帯くずしとしか見えない。ところが、串を出して商売にかかると、彼女の五体から不思議なエネルギーが発散して、目も、顔も、手も、動作の一つ一つまで、彼女の体のどこの部分も生き生きと生彩を帯びて来る。一つの光る玉のように燃焼して来る。その時の見事さといったらない。
 それが、串を帯の間にしまうと、とたんに一切の魅力がスーッと消えてしまう。その一瞬の変化が朝太郎には面白くてたまらなかった。
「もうこれでおしまいーー」
 人垣を散らしておいて、おしんが「さようなら」の代りにそう云った。
「……」
 何かツキモノが落ちたように彼は急に寂しくなった。

小島政二郎円朝旺文社文庫版下巻 一九七八年七月一日発行 一六七〜一七二頁