(その三)上海の苦力

 上海の苦力たちは、寧波あたりから出てきた出稼ぎの細民で、なかには、倒産しかけた一家を助けるため、資金稼ぎに出てきている商人くずれなどもいる。師走前には、梶棒をすてて、裸のからだに泥を塗って、強盗を働くものもあり、青幇党の杯をもらって、ばくちやその他の悪稼ぎに足を突込むものもある。客をのせればゆく先もきかず、暗雲に走りだす。文字通り彼らは、じぶんのいのちを削って生きる。厳寒でも裸足で、腫物のつぶれたきたない背中を、雨に洗わせて走る。客は、その河童あたまを靴の先で蹴りながら、ゆく方向を教える。人力車は、もとは日本からわたったものであるが、日本の車夫のようなきれいごとでは立ちゆかぬほど、たった二十枚の銅貨を稼ぐことがむずかしいのだ。苦力ばかりあいてのめし屋がどこにもあり、荒っぽいが栄養はたっぷりの牛の臓腑のぐつぐつ煮たものをたべさせる。二十枚のドンペで、どうやら飢をしのぐに足りる。ドンペは四百何十枚でなければ、一元にならない。私のいたころの元の相場は、日本の円とパアで通じた。黄包車苦力には、金への執着と、食欲しかない。性欲は、贅沢の沙汰だ。上海の旧城の外には、苦力あいてのいかがわしいのぞきからくりがあり、それをのぞきながら手淫するのが、最上の処理の方法だったりしたが、蒋介石の治下になってからは、阿片追放、グロテスクな見世物、人間の皮膚をすこしずつ剥いでそのあとに動物の毛皮を植えつけた熊男や、生れるとすぐ嬰児を箱に入れ、十年、十五年育てた子男の背に、つくりものの羽をつけた「蝙蝠」の見世物なども、禁制になって影を消した。蝙蝠は、蝠が福のあて字で、目出度いと言うので、商人に縁起をかつがれ、大きにはやった見世物であった。むろん、卑猥な見世物・磨鏡(女同士の性交をみせるもの)や、戸の節穴からみせる性交の場面なども禁じられてしまった。たしかに苦力たちは、欲望の世界で、欲望を抑圧された危険なかたまりで、その発火を、自然発火にしろ、放火にしろ、おそるるあまり、周囲の人たちは、彼らがじぶんたちと同等の人間であることを意識して不逞な観念を抱くようなことのないように、人間以下のものであるらしく、ぞんざいに、冷酷に、非道にあつかって、そうあってふしきないものと本人が進んで思いこむようにしむけた。そういう変質的なまでにあくどいことについては、中国人は天才であった。
 かつて心をひらいて交際った文士の郁達夫のような、ものわかりのいいインテリでも、うるさく車をすすめる苦力たちを追い払うとき、犬でも追うように足をひらいて、蹴散らし、蹴散らしして私をおどろかせた。良識ではよくわかっていることでも、生活のながい習慣になって、平気でうらはらなことをやってのけるのは、明治のふるい日本人にもよくあったことで、東洋人に多くのこっているで東洋的半開と言っていいものかどうか。
 日本の銀行員の妻で、まだ上海慣れない女が、虹口マーケットの近くで、苦力たちの手ごめにあった話が話題をよんだことがある。銀行員の夫は、その妻を不潔とよんで、即座に離別して日本へ逐いかえした。女にふれることもできないみじめさを味いつづけてきた苦力が、その機会をねらっていたとしても、ふしぎはないし、土地なれない女が、災厄にあったとしても、それもまた、ありがちなこととしなければなるまい。女が好んでやりでもしたことのように、無下に断罪するやり口も、時代浄瑠璃の主人公のように、無惨唐突な仕打ちである。私たちの血のなかに、そうした同情や理解のない非人間的な感情の破片が流れていて、不測なときに、言葉や、行為になって現れるかもしれないことを、これからの日本人もよく吟味してかからねばなるまい。
 中国人にしても、その頃はちょうど、解放思想のあけぼのとでも言えそうな時代で、日本の明治大正デモクラシーにでも相当する新思想、人間の平等・恋愛の自由などを口にする連中が多くなってきたうえに、共産革命を唱える若い世代がそろそろ擡頭してきていさえした。抱え車夫が、金持の令嬢と恋愛をして、尊卑にしばられた世間常識の型を破った事件が、上海中の人気と賞讃をよんで、毎日の新聞のトップ記事となっていた。令嬢の名は、黄慧女、抱え車夫の名は、陸根栄。その時から十数年ほど前に、日本では、維新の功臣で、大臣ともなった芳川顕正という貴族の娘が、抱えの運転手と恋愛して、鉄道自殺をはかり、男は即死し、女は顔面に傷を負って生きのびた事件があって、世間を瞠目させたが、それが自由恋愛の戦士とはやされるようなことはなかった。すでにそんな時代を日本では通り越していたのか、日本人と中国人の性格のちがいか、いろいろに考えられもしようが、たしかに江南人の気質には、物見高い、軽佻な風があるようだ。当分のあいだ、人々は、黄陸一対のその後の消息で明け暮れていたばかりか、大衆娯楽場の「大世界」では、芝居に仕組まれて人気を呼び、映画になって、さらにはてばてまでひろめられた。車夫の地位が、それほどのおどろきを呼ぶほど、人外な、みじめなものだったことを物語ることにもなる。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 297〜301頁