(その三十六)ピックポケット

「傷は夢のなかで花を咲かせる」
 男はそう言って、指を二本突き出した。まえに一度聞いたことがある。天才と凡人を振り分けるのはほんのささいな特徴だという話を。天井に伸びた男の人差し指と中指は、やすりで研いだみたいに水平だった。たったそれだけのちがいが、およびもつかない天才の所行を徴づける。ただ、ポケットに滑りこませる指の長さがちがうだけで。中指が長過ぎれば、指の先でつまむという単純な動作のために、ほんのわずかではあるが、指丈をたわめなければいけない。その意識的な動作が、ポケットの膨らみを生み、略奪者の自意識を広げる――無意識の被害者の直観をくすぐるぐらいには。男の指先は、きれいに水平だった。ポケットに深く指を突っこまなくてすむくらい水平だということは、すぐにわかった。ぼくが胸元のポケットを触ったとき、そこにあったはずのものはすでに男の指先に握られていた。「おれは、傷痕が勲章だと言える最後の世代に属していた。いまじゃあ勲章もさっぱり役に立たないがね。経験がおれのなかで死んでいくのを黙って見ているのはつらいんだが、どう話していいかわからない。おれの話は退屈かい?」
 ぼくは盗まれたものを返してほしい気持と手品の種明かしをしてほしい気持のあいだで揺れていた。
 そしてこう答えた。
「どうやったの、それ?」
 男は小学校の名札をぼくに返すと、ゆっくりと揉み手をはじめた。そのしぐさをどこかで見たことがあると思った。
「おや、口もとに歯磨き粉がついているよ」と男は言った。まるでぼくがはじめてその場にいることに気づいたみたいに目を細めながら。男はぼくを見ていた。そして手を伸ばした。今度はよくいるおせっかいな大人のような仕草であったが、一瞬の躊躇があった。男の指先がぼくの顔に触れた。さっきまで感じなかった恐怖にとらわれ、ぼくは舌がひっこむほど居竦んだ。