(その二)出稼ぎ者

 出稼ぎ労働者はふつう、出稼ぎ農民と同義語としてうけとられている。六〇年をひとつのさかいとして、農民は都会の工事現場や工場での最底辺労働者となってはたらくようになった。村からでてきた理由は、それぞれさまざまで、そのさまざまな理由によって、出稼ぎ労働者をみる目もまた多様化している。あまりにも農業収入がすくないための生活費稼ぎもあるだろうし、農機具の借金がえしのためもある。農業機械や農薬やビニール製品や石油ストーブが普及したために、時間と労力があまって村をででるようになったひともいるだろうし、舅や姑から解放されるために家をでる夫婦もいるだろうし、息子夫婦に気がねして旅立つ老人もいるであろう。ためには社会見学やあそびをかねてでかけるひとたちもいる。
 そのひとつの例だけをみて、都会側の人間たちには、出稼ぎ労働者は悲惨だとか、あそび半分にきているとかの同情や非難がうまれる。農民のあいだにも、さまざまな階層があり、さまざまな出稼ぎの理由があるので、出稼ぎ労働者を概念化してしまったのでは、かなり一面的なものになってしまうことになる。といっても、その基本は、
一方では零細農民のきりすてとしての総合農政と、それを推進する一貫した工業化政策であることを忘れてはならない。
 しかし、出稼ぎ労働者は、出稼ぎ路農民の等身大の表現ではないのである。工場や工場現場へいってみればすぐ気づくことなのだが、出稼ぎ労働者は農民だけでなない。農民出身以外の労働者を、あるいは出稼ぎ労働者とはよばないのかもしれないが、農民とおなじ時期に、おなじ地域から、おなじ条件で採用され、現場のなかでおなじ労働をする労働者たち、かれらもまた出稼ぎ労働者たちなのである。農村の次、三男で農地をもたないものや、季節的に仕事がとだえる漁師や大工のほかにも、靴屋や仕立屋やソバ屋などの、企業間競争にかちのこれなかった小商品生産者や、経営者になる夢やぶれたさまざまな職人たちや、工場勤めをやめたものや、サービス業の店員から流れでたもの、あるいは除隊した自衛隊員、これら種々雑多の職業を経験したものたちが、そのつぎのなにかいい仕事をみつけるまでのあいだ、現場の底辺で、農民たちといっしょにはたらいているのである。だから、農村のほうからみた出稼ぎ労働者のかずよりも、はるかに多くの労働者たちが、現場ではたらいていることになる。
 工場のほうからみれば、それは”臨時工"でしかない。その臨時工も、かえるところの決まっている出稼ぎ者と、なにも決まっていない浮遊的な労働者とにわかれる。そして、このひとたちのはほかに、労働市場からきりすてられてしまった、労働力としての老人がいる。須賀さんたちのように、六〇すぎても、七〇すぎても、三〇代の男たちに負けないではたらけるひとたちが、かず多く存在しているのである。
 須賀さんに最初おあいしたとき、かれは”通し”(二四時間労働)を終えたあとだった。船橋市内で夕飯をいっしょにしながら、はなしをきくことになったのだが、七〇すぎというのに、たいして疲れた様子をみせなかった。ただ、疲れがあらわれたのか、左目に大きな眼ヤニの玉が浮び、おしえてあげようかどうか、わたしはしばらくおちつかない気分でいたが、まもなくおしぼりがきて、それで顔を拭いたとたんに、きれいにぬぐわれてしまったので、安心したことをおぼえている。そのときかれは、現場でのほとんどを占める秋田の連中と、しっくりいかないことをしきりにこぼしていた。
「べつに自分に悪いところはないとおもうんだがなぁ」とかれ自身、ちょっとしたことでつめたいしうちをうけることに、納得がいかないような口ぶりだった。年寄りのクセに稼ぎすぎる、そんなやっかみが唯一最大の理由であろうと、はなしをききながらわたしはおもった。
 日給二七〇〇円の低賃金では、超人的な残業だけが、”稼ぐ”ための条件になる。そこで、みんな競争しあいながら、長時間労働をほこるのだが、それはやはり競争だから、ひとつの集団のなかでは、異質な人間、あるいは弱い人間が、しだいに排除されることになる。つまり、足のひっぱりあいになるのである。仕事はおもしろいものではない。かといって寮にかえったって、四畳半の部屋に三人もで暮らし、それも、つぎの勤務にそなえてだれかが寝ているような生活では、おちつけるものではない。それなら工場にいつづけてはたらいているほうがいい。残業が多いのは、そんなこともひとつの理由だった。
 佐渡からきていた三〇歳の青年が、気分が悪いとうったえながらも、交替の人間がいないために、一六時間はたらかされたあとで死んだはなしをきかされたのも、そのときだった。須賀さんが頑健なのは、八年間も工兵隊にいたからだとか、かれ自身、足利市で織物工場の経営者であったことなども知ることができた。研磨作業の内容や工場内の情況については、はなしをきいただけでは、わたしにはさっぱりのみこめなかった。ガラス工場はそれまでみたことがなかったのである。
 一一月には、旭硝子のなかで夏型出稼ぎ労働者と冬型出稼ぎ労働者がいれかわる時期である。その時期になると、世話役が秋田にいき、自分のコネで採用してしまう。それまでの欠員は、スポーツ新聞の求人欄であつめる。須賀さんは『報知新聞』をみてはいったのだそうだが、低賃金のためか、いつでも欠員状態で、いつでもはいれるという。それに企業側としては、やはり若い人間のほうが欲しい。そんなこともわかって、わたしも旭硝子ではたらいてみることにしたのだった。
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 ごく簡単な面接がすんだあとで、わたしは旭硝子の下請け西村硝子からはがきをもらった。
「前略 今日は大変遠い所、お出で下さいまして恐縮に存じました。担当の方が帰所してから打合せ致しました所早急に履歴書を提出してくれとの事でしたので持参するなり郵送するなりして当方にお届けになる様お待ちします。 右用件のみ」
 女文字のペン書きだった。あたらしい職につくものはだれでもそうであるが、わたしもまた、希望とちょっとした不安のいりまじった気持ちで、下着などを詰めたカバンをさげて、工場の門をくぐった。ロッカールームであたえられた書類に、必要事項を記入した。
 雇用契約書。これは労働条件、職種、賃金など無記入の用紙に、署名捺印するのである。賃金の欄はおそらく、わたしに支払われる額より何千円か多い数字が、あとで記入されるのであろう。
 誓約書。
「臨時期間中に会社の都合により退社させられても何ら異議を申しません」
 この文面もよく読んで署名、捺印。貸与品明細書。上衣、ズボン、長靴。帽子。
 ふつうの企業では、これらは労働者がもらえるものであるが、ここではあくまでも貸与。このほかに、足首までとどくゴムの前掛けとゴムの手袋が貸与される。二ヵ月ごとにやめたとき、これら一式は身ぐるみはがされ、ひとつずつ点検されて、わたしの後任者へあたえられた。その日、仕事をおえてロッカーのまえへいくと、そこには、出稼ぎにきた老人が自分の荷物をかかえてたっていた。
 わたしが、自分の私物をひきずりだすと、かれは「すみません」といいながら、すれちがいざまにわたしの荷物といれかえた。やめて用がなくなった人間は、このようにあつかわれる。そして賃金は、かなりしつこくねばったにもかかわらず、その日は支給されず、半月ほどあとで送りつけてきた。電報為替の料金八三〇円は、賃金からの棒引きだった。
 のこりの書類は、労働者名簿、扶養届、扶養控除等申請書、入寮届、それに履歴書である。記入していると、となりのベンチに、ながながと寝そべっていた老人がにじりよってきて、どこからきた、ときく。わたしの返事をきいて、「青森までも世話役がいってるのか」とおどろいている。秋田県からきているかれにとって、秋田以外でも求人活動がはじまったとしたなら、来年からの出稼ぎも不安になるというものである。
「ここには若いやつはいつかないよ。朝、暗くから、夜、暗くなるまで、カゴの鳥だよ」
「仕事はきついんですか」
「ああ、時間がながいから、たいへんなところだよ」
 仕事は、両側の研磨機のうえにかけたパネル盤を、四〇秒間にひとつずつはずして、あたらしいのをかけるだけで、要領がよくなると二〇〜三〇秒でおえ、一〇秒ほどの時間で、天井をみあげたり、まわりのひとの仕事ぶりをながめたり、茶褐色の研磨剤で汚れたゴム合羽を神経質に洗ったりして、気分転換をはかることができる。トヨタ自動車で経験した、一秒のムダもなく手を動かすコンベア作業にくらべると、わたしにとっては、やはり単調きわまりないものとはいえ、楽なものだった。それに、一時間三六分やると二四分休めるというのも、トヨタとは天国と地獄ほどのちがいだった。
 それでも、休憩室のベンチに横になると、ウツラウツラしてしまい、いろんな夢をみる。ハッと気づいて、あわてて時計をみると、まだ三分ほどしかたっていない。そんな状態だった。休憩にはいっている二人が寝こんでしまえば、つぎの番のひとたちは休めなくなってしまう。だから、休んでいても、ねむりこんでおくれないように、けっこう神経をつかうのだった。たいがいのひとたちが三六時間ぶっとおしではたらけるのも、この一時間半おきにまわってくる休憩時間を利用して、すこしずつねむるからである。
 一二時間しかはたらかないわたしが、つぎの日、出勤してみると、きのういっしょにはたらいていたひとが、まだはたらいているのをみかけるのも、めずらしいことではなかった。かれはそのまま、またいしょにはたらくのである。
「三日ぶりにフトンのうえでねたけど、やっぱりフトンは気持ちいいなぁ」
 きわめて実感をこめてそういうのは、横手からきていた佐々木さんである。かれは三五歳前後で、むかしは、田舎で屋台ソバ屋をやっていたという。そういえば、間食用につくるインスタントラーメンを、用意していた小ざるにいれて水をきる手つきは、やはりプロのものだった。何日か工場にいつづけたあとで、目が疲れてしようがないといいながら、こんどはサングラスをかけてはたらいていたこともあった。三六時間はたらいて八時間休む。それからまた二四時間はたらいて四時間休み、すぐまた一六時間はたらくなど、そんな超人的な労働はさしてめずらしいものではなかった。ラップ班は定員一〇名で、二四時間二直分で二〇名必要なのだが、一六名しか採用されていなかった。だから欠員分は、レースのような残業によってカバーされ、それでも手にあまるときは、孫請けの三和興業から補充された。
 一六名のうち、三〇代は佐々木さんとわたしのふたりだけで、あとは四〇代、五〇代、六〇代。中心勢力は五〇代のひとたちだった。トヨタ季節工ではたらいていたとき、わたしが最年長で、あとは二〇代の青年ばかりだったのだが、ここにきて最年少になったことに、みょうな安心感があったものだ。わたしがはたらいていたのは、一〇、一一月の二ヵ月間だったが、このころはまだ夏型出稼ぎ者のいる期間で、秋田県男鹿半島からきているひとたちが多かった。そのひとたちは、旭硝子が西村硝子に委託した四つの職場に配属されていたのである。このうち、一六人いるラップ班では、六、七ヵ月はたらいて帰郷する出稼ぎ者は、六人だけで、あとは故郷にかえっても、田畑も職業もない”出稼ぎ専業者”(通年出稼ぎ者)が五人、のこりの五人が、いまの仕事を”職業”として、ちかくから通勤しているひとたちだった。
 出稼ぎ農業民と出稼ぎ専業者との区別はなかなかつけられない。出稼ぎ者は、一定の期間のあと田舎にかえって、農、漁業の正業につく”予定”があるのだが、ともするとそのまま通年出稼ぎ者にズレこみ、通年出稼ぎ者がそのまま専業者にもなりかねない。だからわたしは、この流動的な三つのかたちを“臨時労働者”としてひっくるめて考えたほうがより正確だとおもっているのだ。すると、元農民であったり、元漁民であったり、元商店経営者であったり、元伐採夫であったり、元仕立屋であったり、元大企業の工員であったり、元ソバ屋であったり、元バーテンであったり、そんな種々雑多な職業をもっていたひとたちが、そこからおわれるようにしてやってきて、いまこの工場で、経験を問われず、同一労働、同一賃金ではたらいているのがみえてくるのである。
 それはたしかに、厳密にいうと出稼ぎ労働者とはいえないかもしれない。それでも、それまでの仕事が“産業構造の高度化”のなかですっかりゆらいでしまい、長年にわたって熟練労働者としてはたらいているいまの姿を、理解することができる。
 かれらは、賃金とひきかえに労働力を提供する賃金労働者であるにもかかわらず、いまの仕事はあくまでも腰かけ的なアルバイトであり、ただがまんするだけだ、という意識も払拭しきれない。が、そうであっても、いまあたえられている仕事との関係を、これまでながいあいだやってきた職人的な”本職”の延長線上で考える意識もすてきれないので、たんなる労働力の切り売りとしてもわりきってしまえない。
 あるとき、二、三日、溶解部門での機械の調子が悪く、不良品しかできないことがあった。ガラスの成分が悪く、製品にならないのだ。だから研磨作業も必要なく、わたしたちは休憩室でゴロゴロして時間を送っていた。労働者にとって、仕事をしなくても賃金がはいるほど”儲かる”ことはないはずで、わたしは週刊誌を読んだり、文庫本をもちこんだりしていたが、同僚たちにとって、仕事がないことは、想像以上の苦痛であるし、また気がねすることでもあり、不安なことでもあったようだ。本工の職制でさえ、すっかりサジを投げて、「みがくものがなかったら、キンタマでもみがいておけ」などと、冗談まじりにいうほどだったが、わたしの年上の同僚たちは、なにか、ソワソワしておちつかず、「こんなのは生まれてはじめてだ」とおこったり、深いため息をついたりするのだった。
 こんなとき、賃労働者として儲かった、ということよりも、からだを動かしていないと退屈でしようがない、という、これまでの労働者として、というより職人としての、自分の力によって物をつくってきたものたちの、勤勉さとモラルと、仕事がきれたときの不安感がうかびあがってくるような気がするのだった。

鎌田慧『ドキュメント 追われゆく労働者』 筑摩書房(筑摩文庫版) 一九八七年四月二三日発行 一五八〜一六七頁
(初版:『逃げる民―出稼ぎ労働者』日本評論社 一九七六年六月三〇日発行)