(その六十) 金子荘太郎(2)

 僕じしんは、意味もなく放埓なくらしをつづけていた。街を歩いていても、ふと旅がしたくなればそのまま、当時まで女中一人を使って一つ家にいた養母などには知らせもせず、汽車に乗って、二晩でも三晩でも、時には一週間でも留守にした。岐阜大垣辺から、関西方面が多かったが、時には長崎から、船に乗って五島の福江島にわたったりした。
 すべてが目的のない行動だった。シドンズもさがしあてず、ドン・ファンにもなれなかった僕は、荒れる血をしずめるために小説のしごともものにならず、ただ病身と、いたずらな精神の疲労感、不安感、みたされないための、周囲への八つ当りで、自己の抑制や、秩序への情熱などにはまったく欠けた半ちくな人間になっていた。一口に言えば、精神の未熟さに帰してしまえるのだが、その未熟さには、あの「時代」から背負わされたものであることを無視できないとおもう。個人は、いつもその時代の犠牲者なのだ。僕一人の形成には、義父や義母をはじめ僕の周囲にいた多勢の助力にあずかっている。その義父は、典型的な江戸庶民で、八笑人や、蜀山人の笑いで、むずかしい問題をかるくいなすことが、手際のいい生きかただと信じていた。非常識なほど、常識を尊び、共通のモラルに立とうとする気概はないのに、職人的な片意地だけを押し通した。
 妻の姦通(女の方だけに過重な姦通罪が、敗戦で改正になるまで日本の法律に存在していた)というような事件を前にしても、義父はそれをはっきりと視る勇気がなかった。そして、それに眼をつむっているあいだに、好都合に事がはこばれることを漠然と待っていた。世間の人情がさしのべる手を期待していたのだ。義母にしても、世間が大目にみて宥してさえいる男の放蕩に対して、みすみす損口な女の放蕩で報復するしかなかったのは、やはり未熟さの悲劇であった。
 なにかにつけて、明治という時代は大味な時代だ。『金色夜叉』や、『乳兄弟』にでてくるような人物は、必ずしも小説中の人物ではなく、粗雑で、浅墓に似た単純なその性格に当時の人々がふしぎを感じなかったのでもわかるくらい、それらの小説は、明治気質のすくなくとも主要な一面をうつしだしていたのだ。
 僕らの知っている明治の人達は、封建時代のままのモラルやものの考えをうけつぎながら立身出世と金力万能主義を、このんで口にする人が多かった。養子の僕が、一高にはいり、帝大の工科を出て、父業をつぐものと人はおもっていた。少年時代の僕の画才をかうものは、僕が寺崎広業を志すものときめていた。小説を書き出したときくと、「小説家になるなら、せめて、村井弦斎か、浪六のような大小説家になりなさい」と意見をした。そういう人達の意に添えなかった僕は、失望され、見放され、くずあつかいされるより外はなかったし、僕じしんも、義父ののこした金のあるあいだは、それで生活しながら自分勝手に振舞っていればよかったが、金がなくなるに従って、肌寒さが迫ってきて、どうにかしなければならないという焦りも感じながら世間知らずで打つ手は何一つなかった。
 そんな僕の前途の影のうすさに対して、義父は、しつけることをしなかった。寛大といえば寛大だが、ほとんどふれようとしなかったともとれる。義母は、病的な癇症で、愛憎の変化がめまぐるしく、彼女の意をむかえるためには、どうしたらいいのかまごまごするばかりで、しまいにはどうでもしろと、投出すよりしかたがなかった。通俗的な解釈をすれば、正常な愛情のない家庭で育った僕の、幼い頃からの荒れかたは、充たされない愛情をもとめるためのごく自然なうごきということになるのだろう。だが、それだけのことともおもえない。僕の周囲から影響されたものは、均整のとれないあの時代の精神であって、義父も、義母も、その他の人々も、成長をゆがめられた個々の犠牲者にすぎなかったのだ。
 戦捷で調子にのっていた日本人は、「チャンチャン坊主」を軽蔑し、支那人のあるいているうしろから、子供に石を投げるようにけしかけた。須藤定憲という壮士俳優が、日露戦争劇でやったのを、親達と見にいったことがあった。露探(ロシア側の日本人のスパイ)が出てくると、怒号し、残虐な最期をみると、おどりあがって快哉を叫んだ。女たちまでが、「死ねばいい」「殺されちゃえ」などと口にした。子供の僕には、怖ろしく、悲しいことで、はらはらしながらじっと眼をすえて舞台に見入っていたものだが、そういう人々のなかで成人してゆけば、僕一人が例外な人間になるというのはちょっとむずかしい話である。こまかい心づかいや、おもいやりのある、ヒューマンな考えかたの人が、あったとしてもおしのけられただろう。明治の不毛磽确を、義父も義母も心に抱いたままで、死んでいった。僕も、その荒地のなかで、非実在の恋人たちの幻影を追った。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 203〜207頁