(その六十三) 石丸婆さん

 石丸婆さんは、鉄扉の内からの錠を外して、眼の前に立っている私たちをみると、しばらくは物を言えず、顔をながめていたあとで、
「あなたがた、どっから降って来よりましたか。この天気に」
 と、雲のなかを雲が岐れてゆくうすぐもりの空を見あげた。婆さんは、逆上気味の赤い顔をして、第一肋骨が飛び出すほど胸をひろげ、ひょろりとした長身のうえに、黄いろい羅紗に黒紐の竜骨のあるガウンを羽織り、革のサンダルを曳きずって、息をあえがせながら立っていた。いつも見慣れた姿である。冬のどんな寒い日も、ガウン一枚で、下はうすぎで、顔をまっ赤にして、暑い、暑いと言っているとのことで、唐辛子婆さんという名がついている。もとは、蘇州の日本旅館の女中をしていたが、工部局のスエーデン人の役人に見染められ、正妻になったという話だが、みる影もなくいまは痩せ枯れているが、「若いときはきっと美人だったとおもうわ」と彼女に言われて、はじめて気づいてみると西洋人の婆さんとおなじ骨骼の顔立ちであった。西洋人の女は、巾着婆か、鶏婆あになるが、この婆さんは、鶏婆あであった。彼女の顔がすり剥けたように紅いのは、心臓病のためだと言ったこともおぼえている。スエーデン人の亭主が死んだあと、本人の故国の縁類たちから苦情が出て、遺産の相続が外国人だからといいう理由で彼女の手にわたすまいと工作したのでひどくむずかしかったのを、役所内の夫の同僚で同情者も出てきて、二年がかりで三分の一ほどをやっと手に入れることができた。どれほどの額かしらないが、彼女一人充分に食べつないでゆけたものを、金が入ったらと目っぱりっこで見張っていた長崎以来の知合いの有象無象が、甘言で口説いたり、利で誘ったりして、鼠が齧るようにすこしずつ減らしてしまったという話であった。それをあぶながる連中も、じぶんの取り分が減らされるのを心配するあまりそんな中傷めかしたことをふれあるくものかもしれなかった。唐辛子婆さん自身も、そのことに充分気づいているらしく、あつまって、裏の小部屋でとぐろを巻いて、倦きもせず猪鹿蝶で小銭のやりとりをしている連中に、つらをつかんで「さあ、さあ、みんな帰りなさい。いくら騙そうとして待っていても、そうたびたびはだまされんから。帰らんければ、箒の柄でひとりひとり叩き出してくれるから」と、箒をもってきて、「気ちがい婆あ。なにをさらす」と言うのもきかず、一人一人の顔を撫で、花札を床に掃きちらした。よごれ浴衣を着て、上海の町を蹌踉としてあるいているこの人達は、一定の職もなく、虹口あたりをごろごろしていて「上海の芥」とよばれる、大金の夢ばかりみながら、果報は寝て待つ、博徒ではない獏徒の走り使いの役にも立たない連中であった。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 302〜304頁