(その六十九) 佐伯米子

 一九二三年の秋、渡航のために新橋にある米子の実家に預けていた荷物が震災で焼けだされた直後は、とうぶんのあいだは東京で不便をしのんでいるしかないと相談しあったものだった。多くの知人を亡くした。運よく住まいを失わなかったものもいたが、友人の何人かは下宿先をにべもなくおい出された。物資はどこでも極端に足りなくなったが、一から生活を整えるために家財道具をよせ集めるよりも、旅に出られるだけの荷物を手もとに揃えるほうがはるかに楽だった。実際、すぐに柳行李はいっぱいになった。それだけでもう、いても立ってもいられなくなった。朝日新聞や出航地である神戸の又新日報の記事を手に取り、めまぐるしく変動する就航予定日を眼で追った。大阪と東京を行き来して親類に別れを告げ、送別会を連日開き、急かされるように一一月二六日の船出の日を迎えた米子は、波しぶきをあげる郵便連絡船の欄干に寄りかかって、遠く離れていく大地を見晴るかした。輪郭がぼやけ、次第に扁平な緑青色に凝固する大地。くぐもった波音がすぐ耳もとでこだました。冷たい風が心地よかった。忙しく準備に明けくれた日々の眼も回るような加速する時間がゆるみ、ようやく本来の落ちつきをとり戻しつつあることが潮風を深呼吸した胸に沁みた。自然に顔がほころび、慌てて頬を隠さなければならなかった。かもめの鳴く海で、そのままぼんやりと揺れていたかった。二、三日もすると、忘れることをつらく思うことはあっても、つらいことを思い出すことはなくなっていた。船酔いのせいばかりではなかった。
 四十二日も硬い大地が踏めないことも、満足に日用品がそろわない不便も気にならなかった。旅が若い家族を知り合いたちの親密な世界から引き離すことすら苦にならなかったから、心配をかけられても笑いとばしていた。周囲の人々は、その姿に感心したそぶりをみせながらも、度胸のよさを認めることもなければ、象牙商で大きな蔵を構える資産家の娘特有の鼻にかかる物怖じのなさを邪推することもなかった。人々はただ米子がほかの人間と違っていると思い、肩をがくんと揺らしながら歩く後姿を見送った。
米子がようやく二本の脚でこの世界を眺めはじめた頃、使用人のひとりに肩車をせがんだことがあった。男の身長が加わるだけで、世界は一変した。縁側からつつじの花の咲く向こうに続く茶色い土塀はこの世界の終わりではなく、単なる家の境界に過ぎなかった。その向こうに陽を浴びた瓦屋根がずっと続いていた。彼女の記憶のなかでは、浅草にそびえる十二階建ての凌雲閣まではっきりと見てとることができた。幼い米子は手を叩いて狂喜した。髪をひっぱり、もっと高くとせがんだ。その途端、彼女の膝を抱えていた手が離れ、世界はまっさかさまに墜落した。米子は板敷きの縁側に落ち、冷たい土のうえに尻餅をついた。見た目は青痣ひとつついていなかったが、医者に診察させたところ、股関節の筋が裂傷しているため手術が必要だという。再び歩けるようになった米子の足は、入院のあいだ固定されていたぶんだけ成長が遅れた。母親の部屋にこっそり忍びこんだ米子が化粧台の姿見に映してみると、以前とかわらぬほっそりとした線が腰から伸びていたが、膝小僧までしか目で追うことができなかった。鏡の脚はそこで切れていた。一歩後ろに下がるのを躊躇したのが、固く丸めた足の指先に伝わった。米子は背筋を張ってまっすぐ立とうとしたが、片足がわずかに宙に浮いた。なんどやり直しても同じだった。次の日にも、その次の日にも米子は鏡のまえに立ったが、畳を踏みしめる足の裏の感触は同じだった。
鏡に映った米子の顔が幼い手の甲に隠れて見えなかったように、周囲の人々が憐れみのまなざしを投げかける米子の心情は、杳としてつかみがたかった。ただひとつ明らかなのは、米子がそのときから障害者になったことだ。笑顔を振りまく大人たちが膝をかがめて手招きしたあと、さっと表情を変える場面を米子はなんども目撃した。なかには米子が転んだと思い、あわてて駆けよってくるものもいた。多くの場合は罪のない、善意の視線が集まれば集まるほど、米子は自分の容姿と立ち居ふる舞いのあいだに大きな溝があることを意識せざるをえなかった。涼しげな目もと。唇の薄い美人――起きあがり小法師を連想させる、ひょこひょこ揺れる歩きかた。
人々が歩くたびに袖を引かれたように揺れる背中に見てとったのはその事故の結果に過ぎなかったが、皮膚の下の見えない傷痕は、もはや健常者ではないという避けがたい自意識よりもずっと深い力で、やがては米子の現実認識の核となる予兆の感覚にぴたりと一致した。ここではないどこか遠くへ行きたいという願望はひとしなみにあったが、あの肩車越しの光景を見て以来、世界はすっかり変わってしまった。その光景がものの数秒しかもたなかったことも、つづく落下が大きな代償となった事実も、無闇にさしむけられる周囲の危惧以上に米子を途惑わせることはなかった。「お嬢ちゃんかわいいね。手を貸してあげよう」。「あのひときれいだわ。あんな脚じゃなきゃ」。米子は自分の外見に向けられる無遠慮な視線に馴れていくうちに、そこにある結果とそうなるまでの原因を区別して考えるようになった。
容姿と怪我は全然べつの事柄。だって、ほら、私を見てみんな途惑う。
ただ米子は違う世界を見たいと望んだ。それが自分には拒まれていないという自負の念が彼女に鷹揚さをもたらし、同世代の芸術家たちがおのれに課した技術的、思想的な葛藤のなかで身をやせ細らせ、誤解や矛盾や断絶に引き裂かれて苦悩する姿を横目にして、ときには優越にさえ浸らせた。原因と結果をわけもなく切りはなす思考に自然に慣れ親しんでいた米子には、彼らが人生のなかで代償として払わなければならないと真剣に思いこみ、実際に罹患したりもする病苦やその日の食事にも困る飢えなど、つまらない演技か冗談のようにしか思えなかった。だから、夫である佐伯を駆り立てる苦痛が、根本のところで米子には理解できなかった。米子にとってそれは捜し求めるものではなかったし、望んで手にするものでもなかった。あの幼かった頃と同じように、肩車をせがむだけでよかったからだ。そのために、画家ならだれもが捕われる自画像を描きたいという欲求に、米子はついに悩まされることがなかった。佐伯が気に入らない自作をすぐに破棄してしまったように、米子は内面がもたらす感情の起伏に愛着を抱くことがなかった。金離れの激しい佐伯が日々の生活費さえ顧みずに困窮した友人に無償で貸し与えたり、蚤の市でひと目見て気に入った人形に投げ銭同様に法外な額の札束を払ったりしたように、異国の地のパリではその変わった歩き姿に向けられるのべつまくなしの同情に煩わされることもなく、石を投げつける悪がきに追い回される心配もない気軽さに包まれ、米子は思わず安堵した。飛びたつ小鳥が枝のうえでいっとき羽をのばすように、旅がふたりを自由にした。物怖じせず、生きることに屈託のないふたりは、似合いの夫婦と言われるようになった。