(その六十四) 鼻のぽん助

虹口辺で、中国人と合弁でハイヤー会社をやっている中尾という人物――この人物は、京都等持院の撮影所にいた頃の岡本潤の友人で、自称アナルシストの、地方の小ばくち打ちのあんちゃんのような人物であったが――から、謄写版の機械を借りてきて、一昼夜で書きあげた現代小説――現在週刊誌のエロ小説をもうすこし無遠慮にした程度のものにすぎないのだが――を、蝋紙に、鉄筆でがりがりと書きあげた。機械にかけての仕上げは、馴れないことなどで難渋をきわめた。ふらりと入ってくる人間を、親疎をかまわず手つだわせた。欲張って、二百冊分刷ったので、蝋紙が破れ、よめない字や、線の走ったものができたが、そのうえに、インキが手について、みるかげもなくよごれた刷上りを畳部屋に立錐の余地もないほど並べて干かした。「いったい、なにをなさいます」と、私のすることをながめていた唐辛子婆さんは、干してある紙をひろげては、「そのとーき、彼は、女の袖の八つ口から右手をさしこみ……」などとよみあげながら歩き廻るので、「お婆さん。よむのは止しなよ。これは、声を張りあげてよむものではないのだから」と、紙をとりあげなければならなかった。ローズが出て、本は百八十冊出来上った。表紙をつけてそれには、着色もし、『艶本銀座雀』という表題も考えた。本は出来たが、こっちがうりあるくわけにはゆかない。老婆が、裏の小部屋の、いのしかちょうの連中に話すと、鯉が麩についてくるように、虹口、呉淞路へんの住人が、「うらしてくだっさい」「十日もあればみんなさばいて来ましょ」とがつがつとあつまってくるのを、「しっしっ」と、犬を追うように払いのけ、「おまえんとは、本もってっても、金を持って来よらんことは目にみえとる」と図星を刺し、あいてにしようとしなかった。
 その翌日、老婆は、楊樹浦から、小男の、きょとんとした顔の、鼻がうえをむいて鼻の穴だけ大きくひらいた男をつれてきた。私は、早速、鼻のぽん助という名をつけた。ぽん助は、見掛けに似ず、てきぱきと話を片づけ、一冊一弗の卸し価で、売るのは、いくらでも腕次第ということにして一先ず手を打った。せめて五十冊はまとめて持ってゆきたいと言うのを、五冊ずつ、それも、現金を持ってきた上で引換えにあとを出すという条件を、こちらも、頑固に主張してて、譲らなかった。結局、五冊持って帰ったが、翌日、早々と戸の鐶を叩いて、メキシコの一弗銀貨を五枚、ちゃらちゃら掌のうえで鳴らしながら入ってきた。あとの五冊をわたしてやると、夕方に、五弗の銀貨を持って本をもらいにきた。どこの誰にうるのかときくと、「いろいろの方面」と答えた。「銀行会社の支店でも飛ぶようにうれます」とも言う。「領事館警察へはもってゆかないだろう」ときくと、「その通りです」と答えたが、この男には、ユーモアが少しも感じられなかった。その代りに、大きく、くらい生壁のような突きあたりがあって、そのむこうがもっとくらい、どんでん返しになっているような気がした。私たちのもっているくらさにはまだ苦しみがあって、うごめいたり、うずいたりしているが、この非力な小男のくらさは、屍体を放りこんでもどぼりと音のするだけの、汚物で流れなくなった深いクリークの底ぐらさと通じるものがあるようにおもわれた。軍閥時代にはりめぐらされた鉄条網の錆びた針金の束がいまだにのこっていて、夏の頃は、夜の街燈をつつんで、億兆と数えきれない蚊が群がっていたものだ。竹籠に入れて吊した獄門首の死んだ血に誘われてどぶからあがってくるものかもしれなかった。そんなどぶ泥のにおいは、鼻のぽん助でなくても、すでに僕じしんにも滲みついていて、新参の来滬者には、耐えがたいおもいをさせていたかもしれない。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 311〜314頁