映画評

(前編)だれもだまされてはいない 松本人志『R100』(2013)

『R100』(2013)は映画である。だから、われわれは決してだれもだまされてはいない。 「ビジュアルバム」や「寸止め海峡」の世界観を映画館で再体験できるという期待に胸を膨らませ、先の三度の裏切りにも関わらず未だに諦めきれない「松本信者」特…

ジェリー・ルイス 適応の問題

スラップスティックの伝統にもたらされた革新のひとつは、「適応」という身振りをめぐって観察することができる。「適応」は社会の掟であり、強制されながらもしだいに流暢に、掟の手前で人は果てるところを知らずに問い続けなければいけない。「適応」が単…

宙吊りの悪夢 タル・ベーラ『サタンタンゴ』(1991−1993)

泥の平面の向こうに浮かんだ白壁の建物を正面から捉えたロングショットに不可解なものはなにひとつ存在しない。建物とカメラのあいだの二〇メートルほどの距離は、これから起こる事態をなんらさえぎることなく存在し、漆喰の白さと扉や窓の黒さを単調に際立…

観察の技法 小川紳介『ニッポン国古屋敷村』(1982)

観察が行われる。撮影のまえに、ただなかに、あとに。時制が異なるだけで、観察の方法も違えば対象も違う。だから、目を見開き、耳を澄まさなければならない。よりよく観察するためには、生活を変えるだけでなく、ものごとの見方から変えなければならない。…

声の複数性 『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1986)

村を漂う声には複数の響きがある。手で触り、耳で聞き、目で見る感触は、大地を流れる時間に反応する。時間の速度が一定していないように、人間に深さの認識を与える感触はその器官の機能の違いによって伸び縮みする時間を捕捉する。排水されずにヘドロと化…

喜劇の上昇運動 『ロイドの要心無用』(1923)

『ロイドの要心無用』(1923)の上映時間は六七分だが、体感としては『キートン将軍』(1926)の二倍ほどに感じられる。後者はいくつかのヴァージョンがあるとはいえその上映時間がおおむね七五分から一〇三分であることを考えれば、この印象は考察…

ピューリタン風のディズニー映画 エルンスト・ルビッチ『天国は待ってくれる』(1943)

戦時中に製作された、ひとりのドン・ファンの生涯を描く映画――ということで、猟色家のカサノヴァの人生をいろどるにふさわしいエピソード群(性の目覚め、恋の手練手管、駆け落ち、不和をまるめこむ巧みな話術、数々の浮気)をまとめるエルンスト・ルビッチ…

職人ジョニー・トー

ひとりの映画作家が生涯に扱いうる物語の型はどれくらいあるだろうか。片手で余るものもいれば、気にしたこともないほど多様な型をとっかえひっかえするものもいるだろうが、ジョニー・トーが扱いうる型は、数えて正確に五つである。この数字に関する限り、…

魔法の一振り アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』(2010)

男と女がいる。 女は男の顔を見て思う。この人は結婚式の日にも髭を剃ってこなかった。一日おきに剃る習慣だから、今日はたまたま剃らない日なんだ、といって。あれから十五年経った。今日もこの人は無精髭を伸ばしている。剃らない日だからって。馬鹿にして…

「ソクーロフ的振幅」とはなにか 『孤独な声』(1978=1987)

あるひとりの学生が提出した卒業制作の九巻フィルムが、居合わせた教授陣にこっぴどくけなされた。なかには上映十分で席を立つ教授もいて、追従者があわててあとを追ったほどだった。制作にかかわった学生たちは抗議の声を上げただけでなく、フィルムをあら…

不在の演出家 北野武『アウトレイジ』(2010)  

長らくフェリーニ病を患っていたという北野武監督が、十年の歳月を経てヤクザ映画に復帰する。おそらくこの見出しは、現時点での最新作である『アウトレイジ』(2010)の紹介としては、いささか不十分であることは否めないだろう。最初に説明しておくと…

五つのプロット ジョニー・トー『PTU』(2003)

仮にあなたが映画監督だったとして、物語を組み立てるための短いプロットがいくつか思い浮かんだとする。これから作り出される映画の全貌は、その着手の段階ではまだまとまっていない。そこで、それが一本の映画にすべて収まりきるかは不問に付して、あなた…

夢と歴史のスクリーン アモス・ギタイ『フィールド・ダイアリー』(1982)

うたた寝が呼び起こした心地よい夢見心地が、ひとりの映写技師を重力から解放する。蒸し暑く狭苦しい映写室から一息に観客席をまたぐと、四角いスクリーンではおきまりの光景――美女が助けを求めて叫ぶ姿が映し出されていて、画面と距離を縮めるしかすべのな…

溝口健二の偽善者たち

偽善者ほど深刻な面構えをするものだ。 溝口健二は決して長かったとはいえない生涯において、一度もそのように口ずさんだことはなかった。だが、だからといって溝口がそう考えていなかったとはいえない。とりわけ晩年の、遊女・芸妓・娼婦・売春婦を描いた一…

視線の悲劇 マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)

愛するもの同士が見つめあうまでは、いかなる人物も見詰め合ってはいけない。 まさかこんな緘口令が敷かれたわけでもあるまいが、リスボンから出発した列車で車掌が切符を黙々と切り続ける長いシーンで始まる『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)では…

消滅の技法 トーマス・アルスラン『売人』(1999)

「抑制が効いている」という標語は、映画評の文言として出てくると、途端に「退屈」の同義語として受け取られてしまう。なぜなら、そこにはアクションを助長するような心情的意味づけも、心理的意味づけを助長するようなしぐさもないからだ。しかし、このも…

ふたつの時間  テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988)

男の子よりも、ずっと早く女の子は成長する。 物事にはなににつけ、知るまでに要する時間というものがある。 このありふれたふたつの命題に息を吹き込んだ映画として、『霧の中の風景』(1988)は記憶され続けることだろう。実際のところ、このふたつの…

サルビアの向こう側で マノエル・ド・オリヴェイラ『過去と現在、昔の恋、今の恋』(1972)

もはやあまりに定番すぎて、それが何を表す曲かはだれもがみな当然のように知っているとうなずきあいながら、いざ曲名を問われると不審なことに肝心の題名が出てこず、あれよあれあなた知ってるでしょと耳打ちしあい、ときには擬音でパパパパーンと恥ずかし…

それぞれの背中  小津安二郎 『東京暮色』(1957)

女が宿命的にかかえる不幸は、結婚という行事によって分断される。結婚するまえには結婚するまえの不幸が存在し、結婚したあとには結婚したあとの不幸が存在する。このいたって単純な法則が支配する小津安二郎の後期の作品『東京暮色』(1957)には、も…

ジャンルという掟から逃げ延びることはできるか  ヤング ポール『真夜中の羊』(2010)

ジャンルという規則 その一本のフィルムが映画と呼ばれる以上、あるジャンルに属しており、ある特定のジャンルに属している以上、約束事には事欠かない。ヤング ポールの映画『真夜中の羊』(2010年)では、ホラー映画の約束事が、いたるところで反復さ…

当たらない弾  岡本喜八『100発100中』(1965)

あけすけに、ひとの命を掌握すること。こうした欲望にもっとも忠実な群像劇に、東宝無国籍アクションの名前を挙げることができる。ルールはひとつ、ひとの命はとっても、命がけにならないこと。東宝アクション映画の登場人物たちは、まるでサイレント映画時…