(その六十) 金子荘太郎(1)

 義父の家は、先祖代々江戸馬喰町で、庄内屋という旅館をやっていた。一町四方もある大きな旅館で、牢内から出たものの手当を命じられて、当主の半兵衛は、姓字帯刀をゆるされていた。徳川とおなじく十五代つづいて、義父の荘太郎が十六代目、僕がつげば十七代目ということになる。上野の山城屋や、古着問屋の大黒屋とも姻戚関係にあった。維新後、家運は大分傾いていた。義父は、義父は、明治元年生れ。義父の実母が大世帯を切りまわしていが、派手好きな女丈夫型の女である一方、浪費家で、晩年は放縦な生活を送り、浅草代地の菅野序遊という一中節の家元をペットにして、箱根あたりをあそびあるいた。序遊は家にも出入りして、義父は肩ぐるましてもらって、大きくなった。一中節の段物四十段も、子供のときから教えこまれた。その序遊という人を僕も知っている。品のよい老人で、いかめしい格好で見台をおいて坐っていた。物心ついた頃、義父の家は没落し、弱冠にして、てん刻師、漆職など転々と職をかえたが、建築請負の清水組にはいって、そこでおちついた。手先の器用な、多趣味な人だったが、正直で、頑固で、融通の利かない方だった。はやくから放蕩の味をおぼえて、みずから通人をもって任じていた。生涯を通じて、それは改まらなかったので、義母とのあいだにが最後までしっくりいかなかった。名古屋時代から、骨董屋を家に出入りさせた。欄陽という、髭のながい老人が毎晩のように遊びにきた。蘭の絵を画くので蘭陽と名づけたのか、蘭陽だから蘭の絵を画くのかそこはわからないが、この老人が、骨董の手ほどきをして、手あたり次第にがらくたをあつめさせた。蘭陽のあとから、大橋瓢竹堂が出入りした。京都へ行ってからは、丸太町の近くに店を出していた佐佐木常右衛門老人が出入りするようになった。田中一圭の弟子の百圭という若い画家もやってきて、その人から僕は、つけたてを習った。義父の叔父が柴田是真の弟子だったので、粉本というものがたくさんあって、それも習わせられた。義父が東京にうつって来ると、あとを追うようにして佐佐木老人も上京した。主としてこの三人の手から買ったがらくたが、土蔵いっぱいになった。義父の死後、両国の美術クラブでオークションをやったところ、点数千八百点、うち掛軸千二百点、刀剣三十口、具足五着、鍔、印籠、蒔絵の料紙硯箱、浮世絵類など、種々雑多なものがあったが、めぼしいものはみな筋がわるいものばかりだった。牛込見附うちにいた風俗画家小林清親のもとに僕をつれていったのは、佐佐木老人だった。そんな環境のなかで僕は、非常に辷りよく、日本画家という前途にむかってすすんでいくようにみえた。その後も未練を出したこともありはしたが、画家という天職に対して反撥する気持の根底もなかなか大きかった。たやすいことにはあまり興味がないという、天邪鬼な気持もあり、一面では、もっとはなばなしくみえる俗社会に心をひかれて、芸術家などというものの存在価値を知らなかったためもあった。西欧的なものへのあくがれも働いていた。縉紳の子弟のいく平民の学習院といわれた当時の暁星中学に入学したために、僕の眼前にさし込んだ光りが、上流社会の子弟の生活や気質をてらし出し、負けず嫌いの僕は背伸びして、それに対抗しようとあせるのだった。三人家族に部屋数十一、女中二人、書生一人といえば月給取りには派手過ぎるくらしだが、それでも学友達をつれてくるには、気がひけた。僕は、名門か、富豪の家に生れなかったことを悲しんだ。
 すこしも進歩的なところのない家庭で成人した僕は、義父の職業に関係ある瓦屋や、ガラス屋や、鳶職や、設計技師、その他には、義父の遊び仲間、遊芸人や、幇間など、まざり気ない旧代の思想感情のなかで生きていた。年中行事は派手だったし、迷信や、ふるいしきたりは、そのまま踏襲されていた。僕の住んでいる世界は、カビと、しみと、時代のふるびと、手垢と、伝統で底光りするものばかりなので、重苦しくて息もつけなかった。義父は、いやがうえにも累積していく古物のなかで、矛盾の多い、しかも世間の釣合いをあわせた、常識人の生活をしていた。物心ついてから僕は、そういう旧い習俗や、生活感情に、魔の淵にひき入れられるような嫌悪を抱きはじめた。草双紙や、土蔵の奥にしまってある塗りの剥げた膳腕や、長持のなかの六角屏風やそれから、いちばん僕を厭世的にした抹香くさい菩提寺の法要や、読経や、本堂の絵馬や、大人たちの退屈な長話や、そういうものはみな、僕にとっては、「地獄」の鬼火と、「死」のにおいのするものであった。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 158〜161頁