不在の演出家 北野武『アウトレイジ』(2010)  

 長らくフェリーニ病を患っていたという北野武監督が、十年の歳月を経てヤクザ映画に復帰する。おそらくこの見出しは、現時点での最新作である『アウトレイジ』(2010)の紹介としては、いささか不十分であることは否めないだろう。最初に説明しておくと、「フェリーニ病」とは彼が自著やインタビューで用いる――もっぱら自らを揶揄するときに登場する用語である。そのことばの指している意味は、監督の自意識があらゆる遊戯装置のなかを嬉々として漂うことで、この場合の遊戯装置とは、フェリーニの場合がさまざまな体型のピエロがスキップするサーカスであり資金を出すプロデューサーであり美しい豊満な女優であり浜辺に住む巨大な娼婦の回想であったように、映画の既存のジャンル=世界観、俳優ビートたけしと監督北野武の分裂、テレビ業界の内実などのことで、これらの遊具はそれぞれ映画という制度、実存の分裂、彼のパブリックイメージをつかさどる半生のことだと思われがちだが、そうした問題機制につきまとう深刻さにも熱心さにも(フェリーニと違って)優雅さにも陥らない程度に遊具のうえで遊ぶことが、北野武にとっての「フェリーニ病」なのである。北野は病気を自称するが、そこに一抹の照れ笑いが残るように、病人(フェリーニ)にはなりきれない。だから、一般に「メタ芸術家映画三部作」と呼ばれる『TAKESHIS'』(二〇〇五)、『監督・ばんざい!』(二〇〇七)、そして『アキレスと亀』(二〇〇八)には、メランコリックな調子のかわりに投げやりさが、浮遊感のかわりに不器用な朴訥さが、記憶喪失のかわりに単なる物覚えの悪さが画面を支配することになる。ここに挙げたもろもろの性格は、もちろん欠点ではない。北野が自分の病気に対して十分に自覚的な以上、病気になりきれないという自意識は、自らのうちにあるなにかを病気と名指しながらも熱を帯びることがなく、また名づけたものだけが結局のところ治癒させるための薬を作り出すことができるのだし、そうであればこそ、そもそも自分は本当に回復を望んでいるのだろうか、と自分に問いかけることもできるのだ。
 私は北野武がなぜヤクザ映画を封印するにいたったのか、その詳しい経緯は知らない。だが、あの北野武がヤクザ映画に復帰するという見出しに違和感を覚えずにいられないのは、そもそもにおいて彼が正統な「ヤクザ映画」など一本も撮ったためしがないという動かしがたい事実と関係している。実際、彼の監督する「ヤクザ映画」は、西日本という地理的要素がすっぽり抜け落ちているのだ。広島を舞台に抗争を描いたあの有名な『仁義なき戦い』のシリーズや、伝統的に博徒組織の根強い大阪ミナミに端を発し組織間抗争に機動戦という新しい戦闘様式をもたらした明友会殲滅事件、それに神戸の港湾労働者の下請け・斡旋から地歩を築いた山口組組長の例を思い出すまでもなく、ヤクザの世界(の映画化)は伝統的に関西以西を中心にその組織図が描かれてきたのであり、われわれが東京のヤクザとして知っているのは、わずかに東映時代の高倉健が下町の土建業者(沖仲仕テキ屋・大工)とヤクザの中間にいたからに過ぎない。関東のヤクザは江戸幕府の開幕以来執行府のお膝元に拠点を構え、財界や政界との抜き差しならない関係を築き上げ、関東国粋会や松葉会系などの有数な右翼系「広域暴力団」が勢力を伸ばしていたにも関わらず、広大な日本家屋に隠居するフィクサーというイメージを定着させたような表象的な貢献を除けば、モデルとしてのヤクザ映画のカリスマを生むことはついになかったといっていい(唯一の例外が愚連隊の長であった安藤昇である)。仮に関東を舞台にしたヤクザ映画を撮る場合、決まって物語のきっかけに導入されるのは「関西勢力の進出」という不動の文言であり、それによって誘発されるのが対抗する組同士の抗争であれ、組内部の利権争いであれ、大きく組織図が変動する危機的な事態を軸に展開せざるをえないというまことしやかな定石にぶつかることになるだろう。こうして設定された外敵は、ときに時代を移して第二次世界大戦直後の復興間もない東京では「第三国人」と呼ばれ、六十年代には片言の日本語をしゃべる「華僑」や「台湾マフィア」と呼ばれることがあっても、「外敵の侵入による既存組織の抵抗(裏切り)」が物語られることにはかわりない。ここで語られるのはある地域(関東、東京)を完結した内部と捉え、自閉した空間のなかで巻き起こる排除の運動である。こうした典型的な物語の創出は、のちに『男はつらいよ』や『トラック野郎』シリーズの少なからざる影響によって、またニューシネマにおける放浪者の再解釈がもっぱらチンピラをモデルに行われたことによって、各地の地方色あふれる風物詩としてのヤクザという虚構の存在を多数出現させたことからいくぶん見えにくくなっているものの、関西と関東の対立という伝統的な縮図は、お笑いの世界だけでなく、ヤクザ映画の世界にも厳然として存在している。そこで北野武の撮ったといわれるヤクザ映画を見てみると、沖縄や合衆国や北国への逃避を別とすれば一切の舞台が東京に集約されており、また「関西勢力の進出」が物語の起動点になっているものは、『ソナチネ』(一九九三)にわずかにそれを匂わせる台詞があるほかは、実に一作たりとも存在しないのだ(『その男凶暴につき』(1989)で白竜の運転するカーステレオから流れる一節は(五代目)古今亭志ん生の「黄金餅」の麻布絶口釜無村の木蓮寺までの名所尽くしの口跡であり、『キッズリターン』(1996)のような純粋なヤクザ映画ではない作品に出てくる高校生お笑いコンビにとっても、関西という地は一瞬通過する場所に過ぎない)。この印象は、あのどこの地方の方言ともつかない独特の言い回しを俳優に求めた小津安二郎に似ていなくもない。北野映画に出てくるヤクザたちは、どの人物もひとしく根無し草であり、彼が捨てたはずの地方の匂いをまったくといっていいほど引きずっていない。
 そこで、『アウトレイジ』の世界を眺めてみよう。冒頭のカットで、私有地の広大な砂利を敷きつめた駐車場に、ずらりと並んだ黒塗りとスーツ姿のこわもての男たちが映し出される。この移動撮影は息を飲むほどすばらしく、われわれは思わず北野武の帰還を祝福せずにはいられない。だが、このシークエンスは単に美しいだけでなく、また相当に金がかかっていることがひと目でわかるだけでなく、説話論的にも厳密なショットである。われわれは、相当な勢力を誇るであろうヤクザ組織が一同に会する食事会で、山王会会長の関内(北村総一郎)を筆頭に組織の構成員が過不足なく呈示され、ジャージ姿の姿勢のいい若者たちが給仕にいそしむなか、中堅どころの会員池元(国村隼)が、若頭の加藤(三浦友和)に呼び出されるのを目撃する。池元が言いつけをことづかってひとり門から出てきたとき、あれだけ大勢駐車してあった黒塗りは嘘のように消えており、こわもての男たちもおらず、池元組傘下の大友(ビートたけし)の組員が、わずかにこれを出迎える。この孤立感こそが『アウトレイジ』が示す抗争の端緒であり、池元が下された命令は、彼が兄弟分の杯を交わした親しい間柄である村瀬(石橋蓮司)組が、最近手広く麻薬の売買を行っており、早急に手を打つようにというものである。一九九二年の暴対法の施行以降ヤクザ社会に広がった麻薬に対する厳粛な態度を考えれば、この展開には一定のリアリティーがあるのだが、加藤の発言が揉め事を起こすための言いがかりであることは疑いえず、この段階でわかることは、山王会という組織が異分子たる村瀬組に目をつけたという事実である。くだんの村瀬はぼったくりバーで資金を稼ぐいたって小心なしがない悪党で、山王会に是が非でも入会したいと切に願っている様子から、われわれは加藤が下した指令がショバの乗っ取りを目的としてはいても、必ずしも全面的な排除を目的にするものではないことが理解できる。したがって、「外敵の侵入による既存組織の抵抗(裏切り)」という線は、この北野武の新作映画でも、早くも消滅したかにみえる。
 池元組と村瀬組は、いたって偶然を装う突発的事故によって、瞬く間に抗争状態に陥る。村瀬組の経営するぼったくりバーに、大友配下の男がたまたま客として入ったことで、因縁のつけ合いが始まり、両組員に死者がでる。この展開は池元を有利に、また大胆にし、大友に直接村瀬を痛めつけるよう指示をする。この電話でのやり取りから直後の、村瀬が通っている歯医者のある建物の通りに黒塗りが急停車し、ヤクザが雪崩れこむショットへの躍動感はすばらしく、その勢いのままに大友は寝台に横たわる村瀬の口に歯科医が使う研磨機をねじこむ。このショットからいみじくもわかることは、ひき続いて問題になる組織の指令とその実行のあいだの乖離の問題である。『アウトレイジ』では、ヤクザ社会がしゃちほこばった縦社会として戯画化すれすれに描かれており、目上の、しかも盃を渡された「親」の言うこととあれば、絶対服従しなければいけないばかりか、ちょっとでも目上にきつく言われると、すごすごと頭を下げて「すいません」とつぶやかざるをえない。だが、このヤクザ組織が見かけ上円滑に機能しているのは、先に挙げた、命令とその実行との無限の距離に依存しているのだ。命令は、なすべきことをなさなければいけないという程度の情報しか示しておらず、なにをなすべきかは命令されたものに委ねられている。だから、「ちょっと痛めつけてよ」のひとことが、一生口がきけないほど口内をえぐられる事態にまでたやすく発展してしまうのだ。この関係から思い起こされるのは、北野の映画に出演した俳優が口を揃えてしゃべる、演出をしない、ということばだ。北野武は、演技に対してほとんど口出ししないという。だが、出来上がる映画は、そうした俳優たちの戸惑いを超えて、むき出しのままの表情を記録している。その表情は、彼らの意識的な演技より数段見る価値がある。演出をしないということばの真偽はともかくとして、われわれにいえるのは、この『アウトレイジ』という世界においては、いったいだれが演出しているのか、という問題についてである。組織が縦社会であることは、それぞれの構成員が単なる歯車の一部であることを意味しない。なぜなら、そうである以上、その組織はほころぶことなく円滑に機能するであろうが、すべての組織はそうではありえないからだ。では、才覚よりも役職こそがその人物に貫禄を与えるほどに完全な統制を見せるこの山王会という組織で、いかにして権力闘争は起こりうるのか。私は北野武が本作で示したかった命題を、このように要約できると思う。そして、組織に内属する個人が歯車以上の存在になりえるのは、単に彼の才覚や個性などからではない。なぜなら、上司が発するあるひと言に端を発して事件が引き起こされるという展開は、最後の何シークエンスかを除いて、『アウトレイジ』のほぼ全篇に横たわる鉄則だからである。したがって、問題は演出と演技の中間項、そこから暴力が吹き出てくる溝、あの命令と実行のあいだの途方もない距離である。
 だが、実際のところ、この溝は暴力をエスカレートすることはほとんどないといっていい。北野武の映画ではどれもそうであるように、暴力は血の流出でもなく、銃痕でもなく、ただ死体の不動性にのみ宿るのだから。確かにこの映画では、辛酸きわまる暴力があり、ある命令が下された以上、その命令から逃れえたものは(たけし演じる大友も含めて)ひとりもいない。(いや、この言い方は正しくない。村瀬組の殲滅命令が下され、ほとんどの人間は銃声のもとに倒れるのだが、顔に消えない十字の傷を負うたったひとりの生き残りが塀のなかに逃げこんだ大友を仕留めるのであってみれば、北野はこの自らを英雄のように描かなかった例外的な映画で、唯一他とは違った死を自らに与えることで、彼が見事に右ジャブと鼻血のカットで親分からチンピラヤクザへの一瞬の下落を描き、回避したにもかかわらず、ある種の英雄回帰を許しているようにみえる。だが、忘れてはならないのは、このシークエンスの始めと終わりには塀のなかののどかな野球シーンが挿入されることである。大友の刺殺はきわめて特殊な世界で起こった因果の帰結であり、周囲の世界にいかなる影響も及ぼさない。北野武が現代最も信頼のおける監督であることは、ここでヤクザ世界が対比されているのが、金子正次の『竜二』(1983)が示したような無辜なる市民社会などではなく、同じ犯罪に身を染めた人々であるという見過ごしがたい演出からもうかがうことができる。)この映画では、ひじょうに丁寧に、死んだ人間の最後の姿勢を動かぬままに映し出している。したがって、暴力のエスカレートは先述した歯科器具の拷問(とカッターでの指詰めのシーン、中華屋の店主が菜箸を耳に突き立てられ、中華包丁で指を切断されるシーン)が例外であって、ほとんどはその痛みの感覚の増幅による死の延期ではなく、単に死の確実性によってのみもたらされるであろう。
 そして、この死の確実性をもたらすのは、ときには個々に名前をもつこともないまま仕事をこなす、末端にいる無数のヤクザたちなのだが、確実性を保証するのは別の存在、つまり直接命令を下すこともなく君臨する山王会会長関内の存在だ。彼は、配下の加藤をこづきながら、物事の先を読むことを常に強調する。目下のところ、彼が『アウトレイジ』における、最も権力をもっていて、筋書きを知っている男である。だとすれば、このなんの魅力もない、いわば表に出てきてしまった陰の支配者こそが、演出をする存在なのだろうか。ここでは、もうひとりの人物、大友のせりふに注目したい。
 大友組は、最初は池元のていのいい実働部隊として任務にあたるが、例によってやりすぎてしまい、村瀬から引き継いだ麻薬の売買は順調に業績を伸ばし、おそらくはモデル事務所を装った違法売春業を引き継ぎ、果ては架空の小国の駐日大使をだまし、東京都知事と同じ名前の舎弟の石原(加瀬亮)に、領事館で開催するカジノ経営をまかせるにいたる。山王会という組織として当然やるべきことは、この突出して力をつけ始めた大友組を壊滅させ、「シマ」をそっくり手に入れることである。ここでの大友組組員の見事なまでの殲滅ぶりは、『BROTHER』(二〇〇一)のように一度栄華の頂点を味わったチンピラたちの没落にみられる急転直下の盛衰のような叙情性をなんら持ちえず、見るものに淡々とした印象すら与える。確かにこの映画では、演出するのは誰か、という問題機制を導入することによって、いくらか不真面目な要素を含まざるをえなくなっている(これは、暴力とお笑いの融合といった問題ではない。そのように『アウトレイジ』を観れば、失敗作にしか感じられないだろう)。
結末を知っているということ。この世界で起こる出来事をすべからく見通すこと。端的にいえば、『アウトレイジ』の世界内で示される演出者の洞察は、そうした点においてみることができる。大友が水野(椎名桔平)に対して、「お前隠れろ。だれかが生き残ってなきゃ結末がわかんねえじゃねえかよ」と口走ることから、殲滅の命令が下った以上、彼らはもはや小さな組(大友企画)やカジノやその他の違法な売り物の演出家ではありえず、わずかに可能性があるのは観客の立場だ、という暗示を読みとることができる。そして、大友という監督自身が別の名義で演じているこの特権的な存在も、以上のせりふから、もはや観客にすらなりえないと予感しているのである(「みんなどうしてる」「みんな死にました」)。では、われわれの命題、この映画のなかの演出家はいったいだれか、という問いは、山王会会長ただひとりしかいない、なぜなら彼が組織のトップだから、という凡庸にして通りのいい答えを用意されるのだろうか。映画を見終わった人が気づくように、そうではない。だが、実際のところ、その結末は非常に気が滅入るものですらある。なぜなら、かつてボクシングをやっていた頃は大友の後輩で、現在は警視庁の組織犯罪対策部(マルボウ)に所属し、ヤクザを保護する代わりにおこぼれを頂戴するしがない片岡刑事(小日向文世)の言うとおり、「今の時代、金より出世ですよ」とうそぶくような人間こそが、最後まで生き残るからである。彼や加藤やインテリヤクザの石原のような男は、演出家というよりは、いくらか先見の明がないわけではないがあくまで自己保身に忠実な存在でしかない。出世は安泰の保証の謂いで、組織を生かすよりも個人を生かす才に長けた人間が組織に生き残り、『アウトレイジ』のなかで演出ができるであろう人間は、ことごとく皆殺しにされてしまうのだ。
こうして用意周到な命令と過剰な暴力を振舞う実行とのあいだの齟齬は、不可解な飛躍として、なぞのまま解けずに残される。『アウトレイジ』のなかのもっとも見ごたえのある殺害シーンである、別れのセックスを終えたばかりの水野を拉致し、ドライブにつれ、人気のない海岸線で黒い布をかぶせ、ロープで首を縛るシークエンスを思い出してみよう。開け放したドアからロープを伸ばし、車両進入禁止の鉄のハザードに、片一方をまきつける。こうして遊び心のある殺戮装置が案出されるのだが、いったいだれが命令したのかははっきりしている。しかし、この要領の悪い殺害方法はいかにして生み出されたのか。実行が終わった段階では薄暗い夜明けの時間帯だが、平然と水野の車を乗り捨て歩き出すふたり組の男たちが、仲間の運転する自動車に迎えられるときにはすでに陽はじゅうぶんに昇りきっている。特別な遺恨を抱いていたわけでもあるまいに、なぜこうした回りくどい殺害が行われうる必然性があるのか。この時点で大友組はほとんど死にていで、見せしめの必要すらないのである。
 だが、あの監督にして主演をこなすひと、カメラの後ろのひとにしてカメラの前にいるひと北野武が「フェリーニ病」から治癒しきっていないことは、いくらか煮え切らない結末のつけかたにおいても診断することができるだろう。この結末は一見して、義侠心のある伝統的なヤクザが利益社会に適応した実業家タイプに駆逐されていくという、もはや使い古された物語構成をなぞるかにみえて、しかし決してそうではないことは、「病」がもたらした兆候を読みとることによってのみ可能になる。彼は自意識の担い手を全滅させることによって、いったん提出した演出の主体を問う問い自体を消滅させたかにみえるが、仮にエンドロールがその時点で流れたとしても、おそらく問題はそうすんなり片づかないはずである。
待望の続編の公開は、先の大地震によって、クランクインを間近に無期延期となってしまった。なんでもうわさによると、その話は刑務所で殺されたはずの大友が、実は生きていて、関西のヤクザの抗争に巻き込まれるというストーリーだったという。だとすれば、『アウトレイジ』において初めて「指詰め」の儀式を受け入れたビートたけしは、まだ観ぬ『アウトレイジ2』によって、いよいよ「ヤクザ映画」の保守本流とあいまみえることになるのだろうか。彼のことだから、期待せずにはいられなかった。なぜなら、それはおそらく、北野映画で初めて登場人物が関西弁を響かせる映画にもなるだろうから。