(その五十七) 安藤

明治のはじまりは、まだ、余勢があって、すもうの柏戸や、相模政五郎や、一中ぶしの家元の菅野序遊だとか、吉原の幇間の桜川なにがしだとかが、昔日通りに出入りし、もの日祝い日の催しには、はなをまきちらして、それを家の格式、繁栄のしるしとおもいこんで、一つには不安と、さびしさをなぐさめているのでした。当主の喜助は、母の血をひいて、ヒフだけがすきとおるほど白く、つるつるとしたうす皮の、多淫な十六歳の家付娘の言うがままでしたが、商売をよそに、じぶんのひまをつくっては隠居然と骨董いじりに余念がなく、手先が器用なので、古い陶器のひび入ったのを漆と金粉で手ぎわよくつくろったりして、閑日月をおくっていました。そんな亭主にあき足りなくなった妻のはなは、鳥越の芝居(たしか柳盛座でしたと思います)の若手役者に夢中になって、家から金をつかみ出してみついだり、比翼紋の揃いの羽織をおくったり、どれほどの深間かしれませんが、その役者の名を腕に彫ったりしているのを見つけ、喜助が世間の恥になると一言言いますと、はなは早速、母親のなおを味方につけ、土蔵の二階に喜助をよびつけ、反対にさんざんあぶらをしぼったということです。そのあとではなは、その役者といっしょに出奔し、別府まで行って、金をつかい果たして戻ってきましたが、まるで遊山旅からかえってきたようにうきうきして、
「久しぶりの旅は、気がはればれしていいもんだね」
 と言ってそらうそぶいていたという話です。
 そのことをきいて、「それではあんまり喜助どんが気の毒だ。わたしが一つ、つよい小言を言ってやりましょう」と言ってのり出したのは、安藤というお旗本の末でした。その人は、その当時、四十歳くらいの男盛りで、骨組みががっしりして、男前だってすこしいかついにはいかついのですが、決してわるくはなく、玄人筋の女で血道をあげるものも多かったとかです。多芸で、常磐津の三味線は玄人の域で、じぶんは常磐津でめしを食うなら大文字太夫でなければごめんだなどと、冗談を言っていたといいます。酒乱の気がありましたが、他人にからんだり、喧嘩をうったりではなくて、ひとりであばれ、からだを柱にぶつけたりするので、はたのものがはらはらしたそうです。ひょうきんなところもあって、おもしろい人物だったようです。大黒屋とは、どういう関係か、むかしから出入りしていて、安藤さま、などと殿様あつかいをするのを嫌って、きげんをわるくするので、「よっさん、いらっしゃい」と言って、仲間あつかいをするようにしました。よっさんというのは、安藤のいみ名の頭文字がよ印だったのでしょう。土蔵の二階へ、はなをよびつけたときは、はじめからもう大分酔っていて、ふだんの安藤とはちがっていました。懇々と意見をしているうち、酔って狂暴になっても他人に手をあげたりしたことのない彼が、はなの大丸髷をつかんで手もとに引きよせ、板の間のうえに、「これほど意見をしているのにせせら笑っていやがる。身にこたえるようにして、根性を直してやる」と言いながら、膝頭で肩をふんまえましたが、はなのからだは骨がないようにやわらかく、まるでぷりぷりした寒天のかたまりのようでした。安藤は、紐で両手を後ろ手にしばり猿ぐつわをはめながら、男と女の常識を越えた接近が暴力と愛撫の界のわからないところまでいって、引き返せないことになってしまいました。そのありさまを母親のなおは、さすがにしんとなりながらも、盃を手にもったままで一部始終見物していたそうです。そのときから、はなは、安藤のあとを追いまわしはじめました。安藤が、避けて寄りつかないでいますと、はなは、安藤の宿におしかけていってうごきません。喜助の手前もあり、くずれきっていない安藤は、やかましくてならなかったことでしょうが、一度そうなった男と女とは、そう簡単に片がつかないようで、ふたりの関係はなおしばらくつづいていました。
      金子光晴『日本人の悲劇』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行