(その六十一) 佐藤惣之助

 詩をつくりたがるようなこころのもろさが、詩をつくるよりしかたがないという、意のはげしさに居直るまでの長い時間に、手持ちの品は、おおかた手ばたかなければならなかった。それは、ただ動産、不動産の物件だけではない。僕のそばをすりぬけて、目の前で他人の手にわたる僕の所有を、気にも止めずに僕は見送っていた。
 そんな頃の僕をよく知っているのは、佐藤惣之助だった。僕の知合った頃の惣之助はまだ若く、二十代の青年だった。詩集『正義の兜』が出たばかりだった。あの六号活字二段でびっしり組んだ詩集は、佐藤の出足の方向をきめたもので、よむものの根気が疲れるというだけでも、年少の僕をおどろかすに足りた。
 川崎砂子の佐藤の家に、ひんぱんにあそびにいったし、彼も、赤城元町の崖下のうすぐらい僕の家の二階へよくやってきた。
 彼がやってくるのは、いつも早朝だった。飯田町の恋人の家で泊って、翌る朝、眠り足りない顔であらわれるのだった。その頃の僕は、そんなことに一向無頓着だったし、むこうからその女の人について話しかけても、僕の方ではほとんどきいていなかった。詩についての話もあまり出なかったが、たまさか詩のことにふれると生娘がこころのなかの人のことにふれられたように頬を赤らめた。彼は、詩に対する熱情を「病気」だといっていた。僕は、そういうじぶんのゆかれかたが意外でもあり、腹立たしくもあったので、「詩を止めなければ、本来のじぶんにかえれない」と、最後までおもいこんでいた。が、さしあたり文学にかわるものが、この人生でみつからなかった。平均のとれた佐藤は、ほんとうは病人でなく、病気に対しての同情者だったようだ。僕にしても、病気にかかっていたとしても、ほんの青春期のはしか、不眠をともなう神経衰弱程度のものだったのだ。
 僕は、曳出し箱いっぱいの、ヒスイや瑪瑙の小さな装飾品をもっていた。つかいみちがないので、そのままもちぐされになっていたが、佐藤は、そういうものに目が利くらしかった。「これは羽織の紐の輪にするとおもしろい」とか、「これは机のうえにおくとよい」とかいうので、「ほしかったらもってゆけよ」というと、彼は、近眼鏡越しに、僕の顔をみてから、
「これはおかしい奴だな。まったく変ってやがる」
 と言いながら、それをもって帰った。
 僕は、溺れようとするものが、なにもかもぬぎすてて身軽になろうともがくように、じぶんにのこっている所有物を一つでも減らしたかったのだ。それで誰にでも、ほしがるものを与えた。そうした僕の無欲の根元が、あとあとまで佐藤は気になっていたらしく、
「君のなかには、ドーミエの描く風刺人物がいるんだよ」
 と、自分に説明するように、僕に言った。
 僕は、僕で、彼をすばらしい奴だとおもっていた。詩がうまいということだけならば、当時、白秋や、日夏や、川路の方に傾倒していたが、彼にはもっと未来をはらんだ、渦状星雲のようなカオスがあると、僕はおもっていた。仕事もそれを証拠立てていた。そして、詩集『満月の月』から吸いこんだみずみずしい水気と妖雰にみちた夕もやが、今日もなお、僕の心のかたすみをずんぶりと涵している。彼の手が鷲づかみにする、やや粗雑だが、多彩な実写とともに、老いこむことのない芸術の新鮮さとがみごとにとらえられて、きらきらした羽をかがやかせていた。あんなに挑発的に宝物の箱を人の前でちらつかせた詩人は、前後になかったかもしれない。白秋だけがわずかに似ていたが、白秋のはあくまで芸術のマジックであるのに対して、惣之助は、世界のみかたを変える、もっと本質的な予言にみちたファンタジーの領土のことで、正に次元を異にしていた。
 一九二〇年前後の日本の若い詩人のホープは彼だった。
 だが、さて、どんなかかりあいで、どんななりゆきで、僕と彼は知りあったのだろう。ヨーロッパから僕が日本へかえってきたとき、歓迎会のあとで、佐藤も、赤城元町にやってきて、
「フランスで詩を書いたそうだが、それをみせろ」
 と、単刀直入に切りこんできた。僕は『こがね虫』の草稿をみせないで、別のノートに書いた叙事詩をみせた。物語風になった長い詩ばかりをあつめたもので、「印度王妃マルナタ」「ルル」「指蔓外道」などの詩篇がはいっていた。彼は、それをぱらぱらとめくったが、決してそれをよんだわけではなかった。よむ暇のあるはずもなかった。ただ匂いをかいだだけでわかるカンの力をもっていた。
「お前、これを発表すれば、日本の詩壇で一流になれるぜ」
 と言った。だが、惣之助が印を捺してくれたその大ノートは、気に入らなくなったのですててしまった。日本の詩人全体に対して批判的になっていた僕は、惣之助の気ばやな、詩人肌な、のみこみのいいことばを、あまり信用しなくなっていた。大ノートの詩が未熟なものであることは、じぶんでだんだんわかってきていたからだ。彼が僕をかってくれるそのかいかたに、かえって彼の大人ぶりを発見して、彼がむかしのように尖鋭でなくなってきたことを知って失望した。彼に対する僕の天の邪鬼がはじまった。そんななりゆきも、今になってふり返ってみると、我ながら大人気ないようであるが、当時としては、そんなふうにしてでも自分を定めてゆくよりしかたがなかったのだ。それでも、佐藤との交友は、十年近くつづいて、いろいろの面倒もみてくれた。その点、彼は、僕にとって、多くいるはずのない知己の一人だったということができる。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 250〜254頁