(その六十八) ベイヤード・サートリス

 それからまた、そうした戦争帰還者の中に、ベイヤード・サートリスがいた。彼は一九一九年の春帰ってきて、見つけることのできる一番速い自動車を買い入れ、郡じゅうを乗り廻したり、メンフィスへいったりきたりして暮らしていたが、(われわれはだれもそう信じていたのだが)彼の叔母さんのミセス・ドュ・プレがジェファソンじゅうを見渡してナーシッサ・ベンホウを見つけ出し、もう一方の手で、車を乗り廻している合い間のベイヤードをつかまえて、二人をやっと結婚させ、これでおそらくベイヤードも自動車で首を折るような無茶はしなくなるだろうと思ったのさ。だって、彼は(双生児の弟のジョンは一九一八年の七月に射ち落とされて戦死していたので)、今やモヒカン族ならぬサートリス一族の最後のものとなっていたからね。だけど、残念ながら、それはうまくいかなかったようなんだ。というのは、ナーシッサは結婚するとすぐ妊娠したらしいんだが、彼女が妊娠すると同時に、彼はふたたび車に戻ったのさ。そして、ついに彼の祖父のサートリス大佐が身を挺してその何問題に当ることになり、大佐は自動車をにくんでいたのに、二頭立ての馬車をやめて銀行へのいき帰りをベイヤードの車に乗ることにし、せめてその間だけでも車のスピードを落とさせようとしたんだよ。ところが、サートリス大佐は心臓が弱っていたんで、車が事故を起こした時、死んだのは大佐の方で、ベイヤードはこわれた車から這い出してくると、妊娠した妻もなにもかも捨てて姿を消してしまい、翌年の春その所在がわかった時にも、自分に考えられる目標よりもどれくらい速くあるものを走らせることができるかを調べることで、退屈をまぎらわそうとしていたのであり、こん度もまた飛行機に、デイトンの試験飛行場で新しい実験機に乗ったんだが、この飛行機は四枚の翼を全部空中ではずしてしまったので、彼はその飛行機にだまされて死んでしまったわけなのさ。
 「そうなんだ、退屈だったんだ」とギャヴィン叔父さんはいった――つまり、戦争というのは人間の中に受けつがれた、生来の凶悪性に活動の機会を与える、唯一の文明化された状態であり、その凶悪性を大目に見たり、それを認めたりするばかりでなく、それに報酬を与えさえするものなんだと、そして、ベイヤードはただ退屈しただけだというんだ。ベイヤードは、戦争を始めたからではなくて、それをやめ、それを終わらせたために、ドイツ人を決して許すことがなかったのだろう、と叔父さんはいうのさ。だが、母はその見方は間違いだといった。母は、ベイヤードはおびえており、恥じいっていたんだと、おびえている自分を恥じたのではなくて、自分が恥じることができるということを、恥じやすいということを発見したとき、こわくなったんだ、というんだ。母は、サートリス家の人たちはほかの人たちと違っているのだといった。ほかの人は大抵、いやほとんど全部、先ずなによりも自分自身を愛するが、ただそれをこっそり承知し、たぶんこっそり認めている。だから、その人たちはそのことを恥じる必要はないし――よしんば恥じていても、恥じていることを恐れる必要はないという。しかし、サートリス家の人たちは、まずなによりも自分たちを愛しているということを知りさえもせず、ベイヤードだけがその例外だった、というんだよ。それはベイヤードにとって別に不都合ではなく、彼と双生児の兄弟がイギリスに着き、にかわと荷造り用の針金でできた飛行機でパラシュートも持たずに飛行機訓練を始めるまでは、それとも二人が前線に出るまでは、それを恥じてさえいなかったという。ところが、前線では、なんとかそこまで生き残ってきたものであっても、偵察機の操縦士が最初の三週間の実戦に生き残る可能性は零に等しかったんだ。そしてその時、ベイヤードは、自分がその飛行大隊でまたとない存在であることに、気づいた。つまり、彼には同じ危険と死の可能性を持っている双生児の兄弟がいるので、自分はただ一人の人間ではなく、二人の人間だということをさとったんだ。そこで、彼はその戦争で跳んでいるすべての飛行士の中で一人だけ、そうした死の可能性に対して倍額補償を与えられているのだと、(そして、双生児の兄弟も同じ補償の片棒をかついでいるのだから、もちろんその逆にもなると)考えたんだが――そのつぎの瞬間、自分がその考えを、知識を恥じていることに、そうしたことを考えることができたことさえ恥ずかしく思っているのに気づいて、ぞっとしたんだというんだよ。
 母は、それがベイヤードのああなった原因だというのさ――そのために、彼はあのような気むずかしい、不機嫌な様子で、多くの人を苦しめたり当惑させたり少なくとも困らせたりできるような、自分の命を危険にさらすいろんな方法を見つけるのを唯一の目的として、ジェファソンに帰ってきたんだというのさ。つまり、彼がそれを持ちながら生きることもできなければ、サートリス家のものとしてはまったく珍しい、恥じることのできる能力のためだというんだ。そのために、危険をおかし、やけっぱちになり、宿命的になったという。ところで、その同じ考えは――つまり、射ち落とされることに対する双生児の持つ倍額補償という考えは――双生児である以上、もう一人の方にも同時に起こったに違いないんだ。しかし、おそらくその考えがジョンを悩まさなかったのは、ちょうど、彼らの曽祖父の初代のサートリス大佐が南北戦争でしたことが曽祖父を悩ませなかったのと同じなんだ、(ギャヴィン叔父さんの言葉をかりれば――そして約五年間の戦場生活のあいだにぼく自身それを試す機会をやがて持つことになったのだが――戦場にいったものはだれしも、たとえY・M・C・Aの一員としていったとしても、帰ってきた時は必ず、自分がそうしなければよかったと思うようなある思い出を、とにかくそれについて考えたくないような思い出を持って帰ってくるものなんだが。)ただ、サートリス家のものの中で、彼ベイヤードだけが弱かったのであり、サートリス家のものらしくなかったっていうわけさ。
 そこで(もし母のいうことが正しければ)、今やベイヤードは二重の重荷を背負うことになった。その一つは、自分自身がどんなにいやしい想像と利己的な希望を、持つことができるというよりも、むしろそれを恥じるように運命づけられているのを知ったための苦悶であり、もう一つは、もし双生児に与えられた倍額補償が彼に都合よく働き、ジョンの方が先に射ち落とされるとしても、彼ベイヤードは、その先いつまで生きのびるにしろ、いつかは互いに不滅の身になるあの世において、弟ジョンと顔を合わせなければならず、その時の彼は隠しようもなくなっている弱さというよごれを身につけていなければならない、という事実のためだったんだ。よごれというのはあの考えのことではない。なぜなら、その考えだったら、その時二人は大隊を異にしていたとはいえ、彼と同じ瞬間に、弟にも浮かんだに違いなかったからで、その二人の考えをジョンの方は恥ずかしいとは思わなかったろうからだ。それではなくて、こういう考えだったのさ。つまり(ジョンはおそらくベイヤードよりすぐれた射手であったか、あるいは彼の隊長の空軍中佐が彼を気に入り、目標を定めたかも知れないのだが)、ジョンは自分が殺される前に三人のドイツ兵をなんとか射ち落したのに、ベイヤード自身は、(「自分じゃあない、自分はすっかりおぼえていたので、打ち金を起こすつまみを引っぱったのさえおぼえていない」というほど正直な人間がいるとすれば別だが)足して二になるか、それよりもう少し上になるために、イギリス流の数え方でいえば、九分の一か十六分の一の役割しか果たしていなかったんだが、ジョンは死に、もはや自分の分け前を要求する心配はなかったので、もしかしたら、彼は記録を保管している人を買収して不正を行なわせ、記録をごまかして偽造させて、すべてのサートリスの書類を一つ名前に変えさせることができるかも知れないと、そうすればとにかく二人のうちの一人は殊勲飛行士として帰国することができるというのだったのさ――だがこの考え自体は、いやしいものではない。なぜなら、ジョンもまたそれを考えたばかりか、もしジョンが生き残り、ベイヤードが死んだら、なんとかしてその考えを達成しようとしただろうから。それがいやしいものになったのは、彼ベイヤードがそれを恥じることによって、それをいやしくし、けがらわしくしたからなんだ。しかもベイヤードには、自分の意志でそのけがれを捨てることができなかった。なぜなら、いつか、どうにも逃げられない宿命として、彼がジョンの亡霊と顔をつき合わせる時、ジョンは面白がり、軽蔑するだろうと思ったからさ。そしてその際、もし彼がピストルの銃身を自分の口に差し込んでそのけがれを捨てるとすれば、その亡霊は単に笑ったり軽蔑したりするだけでなく、永久に和解しない、どうにも和解しえないものになるだろうと思ったからさ。
       ウィリアム・フォークナー『館』高橋正雄訳 冨山房 一九六七年一二月一日発行 185〜188頁