「ソクーロフ的振幅」とはなにか 『孤独な声』(1978=1987)

 あるひとりの学生が提出した卒業制作の九巻フィルムが、居合わせた教授陣にこっぴどくけなされた。なかには上映十分で席を立つ教授もいて、追従者があわててあとを追ったほどだった。制作にかかわった学生たちは抗議の声を上げただけでなく、フィルムをあらかじめ廃棄されないために、現像所に侵入しさえした。出入り口にある検問所を難なく通過できたのは、機転をきかしてアルミ缶を捨てたためだった。フィルムはむきだしのまま袋のなかにほうり込まれ、奇跡的に(罪に問われることなく)生還した。のちにアンドレイ・タルコフスキーが教授陣に働きかけ、この映画に対して「優」以外の評価はふさわしくないことが、一見して物柔らかだが警告とも忠告ともつかない断固とした調子で手紙につづられ、レンフィルムにもこの映画を観るべしという簡潔な手紙が送り届けられる。もはやその経緯が伝説となったアレクサンドル・ソクーロフの処女長編『孤独な声』(1978=1987)が、当局のあからさまな不評を買ったのは、評者たちが一貫してのべているように、原作に選んだアンドレイ・プラトーノヴィチ・プラトーノフの短編小説『ポトゥダーニ川』がそもそも反スターリン的な思想を含んでいたからという理由ばかりではあるまい。しかし、ここで論争は起こらず、不毛なすれ違いに終わる。では、ソクーロフの映画のなにがそこまで嫌悪をもたらしたのか。私はそれを試みに「ソクーロフ的振幅」というあまり詩的でない語句で呼ぶことにする。いくつかの参照すべき逸話がある。上映を終え試写室でソクーロフと話すタルコフスキーは、映画を評して、「これは本物の羊の毛皮外套だが、ただボタンが針金で縛りつけてある。糸で縫い付けるべきだったのに」という。この巧みな比喩の注釈として、ボタンを縫い閉じる糸と針金がなにを指しているかを分析することは可能である。実際、タルコフスキーはこの会話のあとで、映像が斧でぶった切られている、とつけ加えている――「カメラを回した男は才能のある男だ」と前置きしたうえで。つまり、この場合の外套とは映像で、ふたりのあいだで問題になっている「縫い閉じ」は、編集の方法であることがうかがえる。だが、着衣の両端を折り合わせるボタンの比喩は、思いのほかはっきりしない。監督の立場でみればそれは演出だが、場合によっては音かもしれないし、俳優かもしれない。この映画は映画作家の処女作がどれでもそうであるように、すべてが詰めこまれている。ソクーロフは尊敬する監督の言葉に、ただ心外であることのみを伝える(「アンドレイ・アルセーニエヴィチ、他のことは何とでもおっしゃってください。でも、モンタージュについてだけは別です」)。ここでもすれ違いがある。いったい、ソクーロフの映像とはなんなのか。
 私がこれから「ソクーロフ的振幅」と呼ぼうとしている概念は、この稀有な映画作家の持つ方法論の一端を、かろうじてかすめているに過ぎない。赤軍兵士のニキータが兵役を終えて故郷に帰還し、幼馴染のリューバと再会するシークエンスでの会話を例にあげてみよう。撮影時の監督のメモからモディリアーニのタブローが連想されている面長の女性リューバは、ベッドに腰かけ、黒い革靴を脱いでよこすわりする。ふたりは再会の喜びを身体的接触に求めることなく、ニキータは相手をじっと見据え、リューバは眼をしばたたく。やがて会話も尽き、リューバはベッドにごろりと横になってつぶやく。起きていると食べ物のことを考えちゃうから、私は眠る、と。もう少しあとのシークエンスで、ニキータが懐に紙でくるんだクッキーを持って会いに来たとき、リューバは窓際に腰かけながら、クッキーをほおばる。「眠らなくていい?」と尋ねるニキータに対して、リューバは「今は食べてるからいいの」と答える。明らかにこのふたつのシークエンスで交わされるせりふには対応関係が存在している。同時に、食べることと眠ることがどんな関係をなしているのか、にわかには判じがたい。だが、そのふたつの行為が日常生活におけるリズムを規定する両極をなしていることは明らかであり、こうしたふれ幅への関心は、ソクーロフの処女長編のなかで、いたるところに散見されるのだ。たとえば、ニキータとリューバが結婚届を提出する舞台である教会の内部はステンドグラスがはがれ、空洞をむき出しにした廃墟になっている。登録係の男たちは人相が悪く、結婚の登録料にニルーブルを請求するが、おつりがないのでしばらく待って欲しいという。そうすれば、「葬式の手続きをするものがくるから、お釣りを渡せる」。リューバは祝いの儀式に不吉な取り合わせを感じ、ルーブル札を取り返して教会をあとにする。ここでも結婚と葬式という両極が存在する。加えて、形どおりの初夜を過ごしたふたりは、ベッドから抜け出たリューバの「元気出して。これからうまくいくわ。なにもかも」というせりふから、おそらくは不首尾に終わった事実が確認できるが、ニキータはここで突然、「革命はゆるぎない。子どもを作ろう」などと宣言する。こうして党への忠誠がおよそばかばかしい状況で口にされるのも、インポテンツと子作りという「ソクーロフ的振幅」のなかにおいてなのだ。また、父親は息子の帰還を表面上喜んでいるが、戦場から「無傷」で帰還したのか、本当に「無傷」なのか、と問いただす場面では、スーパーインポーズで父親の顔に溶鉱炉の煮えたぎった鉄がかぶされており、なにやらただ事ではないのだが、ここでも戦場と怪我がきわめて親和性が強いものとして呈示されながら、ニキータが無傷であることを不名誉なこととして糾弾される。これら「ソクーロフ的振幅」の両極は、個々の登場人物の選択の幅を示しているわけではない。過酷な運命に対する人間の意志は、その取り分に応じて報酬と名づけうるたったひとつの人生を手に入れることではなく、だれもがひとしなみに食事をし、眠り、傷つき、癒え、結婚し、荼毘にふされるように、あたりまえに存在するふれ幅のあいだを、生れ落ちたその瞬間から振り子のように揺れ続けることに他ならない。
その後ニキータが水辺にいるローブを着た男と舟に乗り、ソビエトのニヒリストらしく死への関心を語る場面でも、死後の世界は生の世界とはまったく違うものとして述べられている。だからこそ死の世界に喜んで向かうことができる。めずらしくしだいに饒舌になるニキータは、揺れる舟の上で、「生の世界と死の世界を行き来できるのは魚だけで、だから魚はぬるぬるして死んだような眼をしている。草をはむだけの牛と同じ神聖な動物だ」と言い、聞き手が「(死後の世界も)ここと同じかも」と答えると、「それはまずい。どっちも同じなんて」というニキータは確信が揺らぐ。縄で脚をしばって欲しいと頼むニキータは、「ものは試しってわけですね。あとできかせてください」という男の声を耳に残したまま、水面に飛びこむ。あっけない水音を残して。
その直後のシークエンスで、ずんぐりと肥った中年の女が(おそらく)牛の臓物を仕分けしている市場が続き、ストップモーションと牛の屠殺のカットが断続的に映像をゆがめる。女の夫らしき男がゆっくりとレンガ壁の家まで歩き、手に持った棒を振るう。このシークエンスは白昼夢のように不気味で、死後の世界かもしれないと観るものに錯覚させるだろう。つづいて棒の振るう先に倒れているニキータが、ゆっくりと顔を起こし、光に眼をそばめ、また顔を壁際にうずめる。庇がかけられたセメントの路のうえで、男は背もたれのない椅子に座り、女は悠然と踊りのステップを踏む。この、おそらくは無事生き延び(てしまっ)た二キータがみたであろう最初の人間の姿を映した場面のあと、ニキータはどぶさらえのような仕事につき、うらぶれた建物のドアを開けようとしたとき、背後から声をかけられる。「お若いの。まだ閉めるな。泥棒でもかまわんよ」。このように口にする男こそ、偶然市場に泊りがけの買い物に来ていたニキータの父親なのだ。つづくカットで薄汚れた床に腰を下ろして語り合う親子は、いたって打ち解けあった様子で、嘘のように親密さすら感じられる。ニキータが出奔したあと、リューバはあとを追って水辺を一週間歩き回り、おぼれていたところを漁師に助けられたという。村に戻ったニキータは、リューバと再会する。「もう私といてもつらくない?」「ああ、君といる幸せにはもう慣れたよ」とふたりが言葉を交わすとき、画面には「死んだ牛の口から立ちのぼる湯気」のカットや「床板の隙間から伸びる草」のカットがつぎつぎに挿入される。これらのカットがそれぞれ単独に意味を持っているとはもはや考えがたい。実際、屠殺のカットが頻繁に挿入されることから、『ストライキ』(1925)でセルゲイ・エイゼンシュタインが試みた、人民の正当な抵抗を資本家が武力によって制圧した経緯を、首をかききられた牛のカットをモンタージュすることで示したようなあの強靭な象徴性を読みとり、戦争や労働に駆り立てられた青年の不安を読みとる向きもあるようだが、むしろ「ソクーロフ的振幅」のなかに取りこまれた映像が望みうるのは、あらゆる一義性への狂暴なまでの拒絶である。実に生活の単調さと呼ばれているものは、この過酷なイメージの揺れ戻しの運動のなかで攪拌されながら、かろうじて平穏を保っている嘘のような僥倖のことに他ならない。
 この特徴は、私の知る限り、二十年ぶりに陽の目をみることになった『ボヴァリー夫人』(1989=2009)の奇妙な音響設計にもみてとることができる。この映画は、原作のギュスターヴ・フロベールというよりもむしろウィリアム・フォークナーの一編から抜け出してきたような、待つことを知らない女を悲劇の主人公にすえており、セルゲイ・ニコラーエヴィチが次のように簡潔に示している。

 ゼルヴダキ(エンマ・ボヴァリー夫人役の女優――引用者注)は自分のヒロインの中に小説を次々に読み漁る哀れな田舎娘を見出してはいない――はるかに重要なことは、彼女がソクーロフと共に、悲劇的に分裂した生活の、分裂した意識の、自然と運命の破滅的な不一致のイメージを創造していることである。「彼女は死にたがっているが、それと同時にパリで生きたがっている」――この文句が、セシール・ゼルヴダキがスクリーン上で何よりもよく実現し得た状態を理解する鍵である。パリか、それとも死か……。死か、それともパリか。心変わりも、小心から起きる動揺もなく。あれか――これか。

 この要約からも、「ソクーロフ的振幅」が映画作家の持続的な関心につながっていることを読みとることができるのだが、問題にしたい音響設計の場面は、あの原作が裁判沙汰にまでいたった、四輪馬車のなかでの情事の場面である。
 ソクーロフの『ボヴァリー夫人』には、草上でのセックスのカットで不意にどこにもない水辺のボートが停留する紐をきしらせる音が響いたり、あらゆるセックスの場面で蜂の羽音がくすぶっていたり、「猫いらずの砒素」を薬剤師の店で手に取るカットではパトカーのサイレンが遠くにこだましたり、葬儀のカットでは旋回するヘリコプターのプロペラ音が振動したり、それが原作に忠実な時代設定を持った作品であることが疑いえないことはシャルル・ボヴァリーの手術で使われる器具等によっても理解できるのだが、音響設計には常に舞台が十九世紀前半だと同定できない雑音がひしめいている。窓から突きだした手袋をはめていない腕によってフロベールが描き出した問題の四輪馬車のカットでは、臆面もなく夫人の股に顔をうずめ、またたくまに全裸になったふたりが重なり合うなか、馬の蹄の音が高らかになったかと思うと渋滞中の車の鳴らすクラクションがとどろき、線路の切り替しを通るときに貨物列車が枕木に反響させるくぐもった音が鳴り渡り、再び蹄の音が強くかぶせられるといったありさまである。ここでは室内しか映し出されていないゆえに、車窓から流れる風景が目測では七十キロかそこらで疾走する速度を示していても、思わず奇妙な現実感覚に引きこまれずにはいられない。なるほど馬車と汽車と車はそれぞれが移動する個人のプライベートの度合いの変遷を示しているのではあるが、このカットではそうした移動手段の歴史的発展にのせて、臆面もなく睦みあうふたりの情事がその時空すら跳び越えてスクリーンを眺めるわれわれに届けられたという印象を植えつける。この言述はもちろん錯覚で、また錯覚の正確な記述でもないのだが、「ソクーロフ的振幅」でつねに感覚を揺さぶられた観客は、ときおりこうした途轍もないショットを見せつけられるはめになる。同様のトリック、つまり「ソクーロフ的振幅」の浮遊感から一挙にごつごつした、揺れる波が一挙に直線になって跳びかかってくるような物象化の印象は、ソクーロフのライトモティーフである棺桶にもみてとることができるだろう。この屍体の肌触りから暗い土のなかの埋葬までの、眼に見える中間段階をあらわす棺桶は、泣きはらしたシャルル医師の計らいにより、なんと三層構造に設計されるのである。最初が桐、次がマホガニー、最後が鉄という三つの棺桶に入れられたボヴァリー夫人は、小さな村人たちに運び出されることによって、まるで三メートルの巨人の屍体のようにもみえるのだ(実際、ボヴァリー夫人がしなだれかかる男の頭を支えるカットでは、指がにんじんのように巨大になっている)。
 同時代の映画作家を呆気に取らせるこのような演出は、私が理解できた範囲でもそのフィルムの隅々に息づいているが、ここで指摘できたのはそのうちのほんの一握りに過ぎない。この呪われた映画作家の公開が比較的進んでいる日本においてすら、その全貌は容易につかみとることができない。ただひとつだけ断言できることは、冒頭で紹介したタルコフスキーの証言にあった、ボタンを縫い閉じる「針金」が、まごうかたなき彼の魅力を指していたという事実である。

参考文献『ソクーロフ』リュボーフィ・アルクス編 西周成訳 発行=パンドラ、発売=現代企画社 一九九六年一〇月一八日発行
(注)たとえば、『孤独な声』では、その冒頭であるひとりの男の肖像写真がくり返し挿入される。この写真の顔は、主人公のニキータとは違うもので、参考文献から判断するに、おそらく原作者のプラトーノフのものではないかと推測される(あまり確信はない)。これが事実だとすれば、映画内の物語に歪みをもたらすドキュメンタリー的側面が存在していたことは間違いない。だが、この写真の主はキャプションをつけられることなく呈示され、また壁にかかったニキータの父親の写真(これも推測)のズームや、リューバが弟を思い出すカットでめくるアルバムと並存しているため、フィクションとドキュメンタリーの境界はきわめて曖昧なままである。
 また、私の記憶では、水から這い上がったニキータとリューバが交わす会話は本文に示したとおりだが、参考文献の一節でその会話のカットを抜き出した文章では、以下のようになっている。

ニキータ「リューバ! リューバ! 僕だ、帰ってきたよ」
リューバ「ニキータ
ニキータ「君は辛くない?」
リューバ「いいえ。私は感じないわ。あなたはもう大丈夫? 私と一緒で悲しくない?」
ニキータ「何ともない。僕はもう君といる幸せに慣れたよ」

 最後に告白すると、私は、『孤独な声』でみられるニュースフィルムのカットが、正確にどこで、どのように、また何度挿入されたか、確信を持ってこの論を書いているわけではない。また、私は水上での死の問答を、ニキータの発言としているが、参考文献には、その問答が教会の記録係のものだとする記事もある(これはおおいに疑わしい)。この点は原作の小説が未読なために判断できない。問題のカットは、陽が落ちたばかりのように暗く闇に湖面が覆われ、舟上のふたりは輪郭だけをかろうじて留めているに過ぎない。私が舟上で死への興味を語るのがニキータであるとする根拠は、第一には、直前でニキータと僧服の男が出会うカットがあることから、第二には、水難に遭うのがニキータでないとその後の失踪の説明がつかないことから、本文のような判断を下したことを、ここに記しておく。第三には、舟の上のふたりの男のうち、どちらが死への興味を語っているのかという点で、私はその声音からというよりは、死への問題意識がニキータの造型に一致するという意見でニキータのものであると主張し、仮にこの場面で水辺に飛び込んだのが、実は一貫して聞き手であった僧服の男のほうである(しかも実はこの僧服の男がニキータであった)、というどんでん返しでもない限り、自説を支持するものである。