(その六十六) 野間三径

 中学生は仇名をつけることの天才だ。うす菊面のある国語の教師には「かたぱん」、同級の月足らずのような少年には「血塊」、顔色の悪い黄ばんだ少年には「うんこ」、僕には、「こんにゃく」という仇名がつけられた。漢文の先生の野間三径には、「にせ聖人」という名がついた。野間軍兵衛という、どこかの藩の軍学者の子で、父から儒をさずけられたという。三径という号の出所は、陶淵明の「帰去来辞」にある「三径荒に就き、松菊なお存す」からとったものだ。政治の腐敗をなげき、及公一たび廟堂に立てばと、志、時にあわないことを、ふうくらな僕たち生徒達の前でぐちり、せめて僕らのあいだから、志をつぐものの出ることをのぞむ口吻だった。暁星のノラ息子共は、ほとんどまじめにきいているものがなかったが、言句が激しい調子なので、他の時間のようにさわいだりせず神妙にきいている顔をしていた。
 旧世界で育った僕には、漢学がよく理解できた。簡野道明の教科書だけではあきたらず、『十八史略』からはいって、『史記』の「本紀」「列伝」をあさり読んだ。『書経』を読み、『戦国策』『春秋左氏伝』というふうに、経書よりも、むしろ史書に親しんでいった。野間三径ハ、僕に眼をつけて、指導した。やりたいことしかやらない我儘よりも、やりたいことしか、どうしてもやれない憑かれた性格の僕は、他の学課をすべて放擲して、学校を休んで、夏休みのあいだも朝から夜ふけまで、古書をよみふけっている日がつづいた。病気欠席届を、謄写版で何枚も刷って、じぶんで作らせた保護者の印を、それも自分で書いた署名の下に押して、郵便で学校に送った。先秦時代の史書をあさることに深入りした結果、帝国図書館に日参し、『玉函三房輯佚書』の、「竹書紀年」や「楚史檮杌」「晋史乗」などまで丹念に毛筆で写本した。馬驌の『繹史』を、崇山堂でもとめた。『史治通艦』の百冊の揃い本を小さな背にしょって、神田から汗みずくになって、牛込の家までかえってきたこともあった。史書をあさることは、なにごとにもかえがたい新鮮なよろこびであった。西洋流の学問をすてて、二松学舎に入学しようと思って、そのことを先輩や友人に相談したが、おもい止まるように言うものが多かった。学校の成績はがたおちした。一つのことに傾くと他を顧みない、バランスのとれない僕の性質は、僕の一生を支配する致命的なもので、なにか愚かでもあり、それだけまたひたむきとも言えた。僕は、じぶんで、道斎と号をつけ、野間三径とおなじように、軽佻浮薄なこの時代の風潮を矯正するため、漢学の普及、先哲の精神を鼓吹するために一生を捧げる気になっていた。
 しかし、それも芯まで滲みる暇がないうちに、儒教的な考えから次第に逸脱して、老、荘、列に移っていった。なかんずく、荘子の文の壮麗が僕をとらえ、司馬相如を愛誦するようになった。一方で、僕は、稗史小説をむさぼり読んだ。『八犬伝』『弓張月』からはじめて、はじめのうちは読本をあさっていたが、合巻物から、黄表紙、洒落本まで、活字本では気がすまないで、古書店をまわったり、夜店をさがしまわったりして、紙魚の穴のあいた原本をあつめた。僕の本箱には、漢文の本と並んで数千冊の江戸小説類が蒐集された。いま思い出しても、それは一人前な蒐集と言える。当時はまだ、そんな原本が小づかい銭で手にはいったものだ。黒本や、浮世草子のような珍しいものもあった。黄表紙も、『千石通』や『色男十人三文』のようなよりぬきが三十冊位はあつまった。江戸末期、化政を中心とした最も爛熟した時代のデカダン文学の背後を貫いている思想は、やはり老荘の思想であった。京橋の伝も、春町も、喜三二も芝全交も、桜川杜芳も、おおかたの作者というものは放蕩を讃美し、吉原をわが家として、世間を茶にして、放縦無責任な日常を送りながら、みずからを通人としてヤニさがっていた。十三歳の半可通な少年は、ついに、彼らの態度をじぶんの態度に借りて、廓に関する文献によって色恋のあそびにも通暁してしまったような錯覚に陥り、みずから一炊亭南柯道人と号して、十枚つづりの合巻小説を、仮名書きの七五調で書きつづった。『月翳上野夜嵐』『江戸川桜鬱金双紙』などという題名のものだったが、散佚して、どんなことを書いたか、筋もおぼえていない。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 166〜170頁