(その五十三) ユーラ・ヴァーナー

彼は忙しくても平気だったんだ。だって、満足し、幸福だったからな。彼にはもうなに一つ心配ごとはなかったから。ユーラはもうだれの手にも届かないところへいってしまったんで、マッキャロンとかド・スペインとかいう名前の別の男がまた現われるかも知れないと絶えずびくびくしながら、詩人たちのいうひりひり痛む親指をふたたび齧らなければならないようになる危険から永久に安全になれたからさ。それにリンダも今では、単にフレムから永久に安全になっただけでなく、検事が彼女のおふくろやじいさんからもらった彼女の金を完全に管理していたんで、どこへでも好きなところへいくことができたんだ――だが、そのためにはもちろん、キリスト再臨の日だか最後の審判の日だか知れない、その日がおとずれる前に、ユーラの顔を彫り終わるように、検事は海の向こうの人々にうるさく催促する必要があり、彼は見つけられる限りのユーラの写真を集めて、イタリアに送り、さらにそのあと、まずいところを調べようと思って、仕事の進行状況を示すスケッチや写真が彼のところに送られてくるのを待っていたのさ。そしてなん度か、相談したいからなん時なん時に事務所へきてくれということづけをわしによこし、いってみると、そこの机の上には、イタリアから着いたばかりのスケッチや写真がおかれていて、それに特別の光線を当てながら、「これが耳だ、これが顎の線だ、これが口だ――ここのところだ。どうだね?」といい、わしはいうのさ。
 「わしにはとてもいいように思えるよ。わしには美しく見える」すると彼はいうのさ。
 「いいや、ここのところがいかん。わたしに鉛筆をかしてくれ」だけど彼はすでに鉛筆は持っているんだ。だけど彼にだってうまく描けないんで、消したり描きなおしたりしなければならなかったのさ。だけど時間はどんどんたっていくんで、彼はそれを送り返さなければならなかったんだ。そしてその間に、フレムとリンダはド・スペインの家に住み、フレムは自動車を買い入れ、自分では運転できなかったが運転できる娘がとにかくいたんで、少なくともたまにはそれに乗り、とかくするうちについにそれが仕上がったんだ。それは十月であり、検事はその除幕式がその日の午後墓地で行われるという知らせを、わしによこした。だけど、わしはその時すでに、チックにそのことを知らせておいたのさ。だって、検事がこの時までに到達していた平和と満足の状態から見て、わしとチックの二人がいく必要がありそうだったからだ。そこで、チックはその午後学校を休み、われわれ三人で検事の車に乗って墓地へ出掛けた。そこにはリンダとフレムもきており、フレムの車にはニューヨーク行きの汽車に乗るようにりんだをメンフィスまで連れていくはずになっていた黒人の運転手が乗っていて、荷造りしたリンダのスーツケースまでおいてあり、フレムはもう五年もたつのに今だに彼のものとは思えないような黒い帽子をかぶって、うしろの席によりかかって、口をもぐもぐやっており、その隣のリンダは黒い外出着に帽子をつけ、顔をいくらかふせ、白い小さな手袋をにぎりしめた拳を膝の上においていた。それからまたそこには、あれが、表面にあの顔のついているあの白い記念碑があったんだ。しかも、祖ノ顔は、たとえ死んでいる石で彫られたものであっても、すべての若者がいくつになっても、いつか死ぬ前に、それによって破壊させられ、亡ぼされ、破壊される身になりたいという希望と信仰を今だに捨てきれずにいたあの顔のままであり、その下にはフレム自身が選んだつぎの碑銘が読めたのさ。

 貞淑な妻はその良人にとって一つの栄冠である
 彼女の子供たちは立ち上って彼女を祝福された人と呼ぶ

 するとついにフレムが窓から顔を出して唾を吐き、また座席のうしろによりかかってから、「そうとも。これでお前も出掛けられるぞ」とリンダにいう。
 そうなんだ、検事はこれでやっと自由の身になったのさ。彼はもうなに一つ心配ごとがなくなり、検事とチックとわしは事務所へ車で戻り、道々検事が、フットボールの話をはじめ、みんながゲームできるようにみんなにボールを一つずつ持たせれば、フットボールの試合を時代の進歩におくれないで当世向きにすることができるだろうと、いやそれよりも、ボールは一つだけに限って、境界線を廃止する方がいいかも知れない、そうすれば、例えば抜け目ない奴がそのボールをシャツの尻の下にかくしてこっそり藪にはいり込み、だれも彼のいなくなったのに気づかないうちに、町をひと回りして裏の路地を抜けて戻ってきて、ゴールに跳びこむことができるかも知れない、っていったりした。そしてまっすぐ事務所にはいると、検事は机のうしろに腰掛け、とうもろこしのパイプの一つを取りあげて、三度マッチをすったが火はつかず、ついにチックがパイプを彼から取って、煙草入れから煙草をつまんでパイプにつめて検事に渡すと、検事は「ありがとう」といったが、煙草のつまったパイプをくず籠にすて、両手を机の上で組み合わせて、なおも話しつづけているうちに、わしはチックに、
「この人に気をつけていてくれよ。すぐ戻ってくるからな」といって、外に出ると路地へ曲った。わしも忙しかったんで、一パイント壜に入っていたのは碌なものじゃなかったが、それでも、とにかく飲んだ瞬間はアルコールと感じられるものがはいっていた。そこで戻ってくると、食器棚から砂糖壺とグラスとスプーンを取り出し、トディをつくって机の上の彼のそばに置くと、検事が、
「ありがとう」といったが、それにはふれようともせず、組んだ手を前においてそこに腰掛けたまま、まるで目に砂でも入ったように。素早くしょっちゅうまばたかせながら、いい出したんだ。「われわれ文明人は、われわれの文明は蒸溜の原理の発見に始まると考えている。そして、世界のここ以外の連中は、少なくとも合衆国のここ以外の連中は、われわれミシシッピの人間を文化の最もおくれた人間と見なしているけれど、たとえ現在の状態がこの上なくお粗末なものだとしても、われわれだって天上の星を求めて努力していることを、だれが否定できようか? あの女はなぜこんなことをしたんだろうな、V・K? あれは――あのすべては――あの女は歩いたり、生きたり、呼吸したりしてきたあの体は――それはただあの人に貸付けられていただけだ。それはあの女が勝手に破壊したり捨てたりすることのできないものだったのだ。それは非常に多くの人々のものだったんだから。われわれみんなのものだったんだから。それなのに、どうしてあんなことをしたんだろう、V・K?」と彼はいう。「どうしてだろう?」
「たぶんあの人はうんざりしたんだな」とわしがいうと、検事がいう。
「うんざりな。なるほど、うんざりな」するとその時、彼が泣きだした。「あの女は愛したし、愛したり、それを与えたり受け取ったりする能力を持っていた。だけど、二回試み、二回とも失敗した。その愛を受けるにふさわしい力を持った相手を見つけられなかっただけでなく、それを受け取るだけの勇気のあるものさえ見つけられなかったのだ。そうだ」検事は涙をしきりと顔にながしながらも、もはや世界のどこにも彼を苦しめたり悲しがらせたりするものがないんで、平和な様子でいったのさ。「確かにあの女はうんざりしたのだ」
       ウィリアム・フォークナー『館』高橋正雄訳 冨山房 一九六七年一二月一日発行 144〜147頁