(その五十九) 金子須美

 親戚の女髪結いのもとにあずけられて、無心であそんでいた二歳の僕を、髪結いにきた女たちが、かわるがわる抱きあげてあやした。色が白く、骨なしのようにやわらかいそのあかん坊は、すでにバガボンドの素質をもっていたものか、抱くあいてが誰であっても気にとめないで、三白眼でじっと眺めたり、ぬきうちに、大人とおなじ口をきいて、あいての度肝をぬいたりした。生れつきのように画が好きで、壁という壁に、爪で絵を彫りつけた。「坊さん、大きくなったら、なにになるの?」とあいそうに人がたずねると、その子供は、シニックな、おどけた表情をつくって、「手ぬぐいをかぶって」とかたちをしながら、「お尻をはしょって、屋根をみし、みし」と、さんざん気をもたせたあげく、「泥棒になるの」と言った。えらい画家のなるとでもいうのだろうと期待していたあいては、返事のしようもなくて、鼻白んでしまうのだった。そんな僕を抱いたまま、手放すのがいやになった十六歳の若妻がいた。建築請負「清水組」の名古屋支店長の金子荘太郎の妻の須美だった。子供のような若妻は、髪を結いに来て、ふと僕を抱いてから、ふたたび下へ置こうとしなかった、人形を買うつもりで、僕の実父母に交渉し、僕を養子の籍にうつした。実父母は、前途の方策に迷っていた時なので、子供の一人口を減らすことで、それだけ行動が身がるくなるので、手放す気になったものらしい。
 十四しか年のちがわない養母は、癇症で、我儘で、派手好きな、まだ娘といった方がふさわしい女性だったが、異常なまでの好悪と、美醜の差別感が強かった。彼女は、着せかえ人形のつもりで、僕をおもちゃにした。髪をのばしておたばこ盆に結い、またくずして、稚児髷に直した。つくるきものは、女の子の仕立で、柄も、鶴の丸や、雪輪もようの友禅染の女柄だった。弱いから、女姿で育てるとよく育つというのが口実だった。二歳から五歳まで、そんなわけで僕は、女の子のように育てられ、あそびにくる友達も女の子ばかりで、てまりや、きしゃごや、おはじきであそんだ。
 養母は、養父にとってはいわば、天下りの妻だった。建築界の重鎮で、「清水組」の顧問格であった佐立七次郎(彼は東京帝大工学部の前身工部大学校第一回卒業生で、その年の卒業生は四人、辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次郎ときいている)が姪の須美に与える、有望な社員を清水満之助にはかって、金子に白羽の矢が立ったものだった。佐立も、佐立の義兄になる須美の父も、ともに讃岐藩士で、須美の父は江戸番町の藩邸の留守居役をしていた。武士の家庭の空気というものは、今日想像するような几帳面で、ノーマルな感じのものではなく、厳格なしつけそのものが、年月に歪んで不条理にみちて、実質のない誇りと、世間から受ける不当なあしらいのために非常識な、危険な性格をつくり出し、それが、なんとはなしに一触即発底の雰囲気をかもし出している。義母の性格にもそういう小心な、おちつきなさと、世間から遊離した、白痴的なおっとりさが同居していた。感情や生理に駆られれば、なにをやり出すかわからなかった。そういう彼女と、皮を剥いだ赤むけのような神経質な子供とは、似たようなもの同士のおもしろい組合せであった。
 旧来のものと、舶来のものが、そのままの姿でいっしょにいた。日本で真似て製造するより早い時期のことで、石鹸にしろ、缶入りのパン菓子にしろ、直接欧米から輸入したものが多く、ビスケットや、モルトン会社のドロップなど、ハイカラなものを歓迎しながら、家のなかには、ふるいしきたり、ふるい道徳、ふるい常識に、毛すじほどのゆるぎのない時代だった。義父の妹二人が、まだ嫁がずに、一つ家にいた。義母を加えて、三人の若い女が、いつもあつまって縫物をしたり、お茶うけを食べたり、ほおずきを鳴らしたりしながらしゃべっていたが、その内容は子供の僕にはわからないことばかりだった。今日のレコード・プレーヤに相当する、手廻しの紙腔琴というものを鳴らした。明清楽の月琴は、日清戦争からすたったとはいうが、彼女たちがかき鳴らしていたことを僕は憶えている。草双紙の『妙々車』や、『白縫物語』のあのわかりにくい仮名書を叔母たちが、声をあげて読んでいた。紅皿と、牡丹刷毛、叔母たちは、義母といっしょになって、僕の顔におしろいを塗り、玉虫色の口紅をつけて、おもしろがって、外をつれあるいた。映画の代りに、影絵というものがあって、それを見にいった。影絵は江戸時代からあったもので、風呂と称ぶ一種の幻燈器械で幕に映す彩色のあるうごく画で、福助がおじぎをしたり、牡丹に蝶が舞ったりという簡単なものであった。だが、その倏忽として、消えたり、あらわれたりする色鮮かで幻怪なまぼろしと、それをみてわれを忘れた子供心の感動を、いまも忘れることができない。どこか不健全で陰気なびんつけ油や脂粉のにおいのなかで、僕は成長した。二人の叔母の姉の方は、やがて東京へ行って結婚し、女の子を一人生み落すとまもなく死んだ。妹のほうは、金子の一家が、京都の支店に移る頃までいっしょにいて、僕を抱いて寝た。彼女は乳房のあいだで僕を抱きしめた。その叔母も、遠縁にあたるSという社員と通じて、ある日突然、姿を消した。二人で手をとって、東京へはしったのだ。その時、僕は、五歳になっていた。金子の父は、激しくそのことに立腹して、その後ながく妹夫婦と絶縁して家の閾をまたがせなかった。
      金子光晴『詩人 金子光晴自伝』(『ちくま日本文学全集 金子光晴』所収)筑摩書房 一九九一年六月二〇日発行 135〜140頁