(その七十二) アメデオ・モディリアーニ

 モディリアーニ肖像画では、モデルの個性を表すのにふさわしい手法によって、その身体の一部分が示される。顔や眼、あるいは両手など身体の一部が慎重に選択され、強調されることで、モデルの人間性が象徴的に画面に示される。モデルたちは、頭を支えていたり、背筋を伸ばして座っていたり、前屈みの姿勢でいたり、ポーズはさまざまであるが、いずれもその人格にふさわしい形に工夫されている。……モディリアーニは、人間の顔の形状についてのさまざまな表現方法を十分に会得していたし、モデル自身の性格のみならず、彼らとモディリアーニとの関係の本質までも象徴する記号をも手中にしていた。すなわち、肖像画の制作においてモディリアーニは、モデルに対する自らの感情的反応を絵画化していたわけであり、したがって彼がポール・ギヨームを心底軽蔑していたことや、マックス・ジャコブを尊敬し、ルニア・チェホフスカを心から崇拝していたことなどが、彼の肖像画から理解できるのである。モディリアーニ肖像画で目指していたものは、モデルに対する自らの判断をそれとなく暗示することであった。こうした態度は、実生活においても妥協や順応を嫌ったことと通じていよう。彼は自分の人格を無視するような人間を決して許さなかったが、同時に、官能的な女性を描くときでさえ、彼女の人格性を無視しなかった(この点で、ひたすら男性の気をひくような女性像を描いたマリー・ローランサンとは対極にある)。彼によって描かれた女性たちは、画面で挑発的なポーズをとるときでさえ、そうした表情の下には自らの挑発を抑えようとする動きがある。つまり彼の描く女性像には、いずれも豊かな感情があり、それはその場かぎりの刹那的なものでは決してない。
「モデルを前にすると……、私は彼(あるいは彼女)の顔の特徴を探し求める。その特徴さえ手中にすれば、あらゆる人間に生得的に備わっている非常に厳粛な性格が画面に現れてくるのである。」
 これは一九〇八年に「ラ・グランド・ルヴュ」誌に発表された、マティスの有名な言葉であるが、おそらくモディリアーニも彼の言葉に同意したにちがいない。たしかにモディリアーニの方がマティスよりもモデルの個性に興味を持っており、そのかぎりでは心理学者に近いといえる。
         キャロル・マンアメデオ・モディリアーニ』田中久和訳 株式会社PARCO出版局 一九八七年一一月一〇日発行 180〜181頁

 キャロル・マンは、モディリアーニとモイズ・キスリングが、詩人のジャン・コクトーをモデルに肖像画を競作した場面を取りあげている。モディリアーニの描いたコクトーは、口をすぼめ、細い顎をのけぞらせ、肩を四角く張っている。「モディリアーニの描く肖像に起こりがちなことであるが、後年のコクトーはこの肖像にしだいに似てくるのであった(コクトー自身はこの肖像画を嫌っていた)。コクトーはいつも自分をドリアン・グレイのように美貌の青年として描かれることを望んだ。」(134〜135頁)
 キャロル・マンはこの伝記を、ジャック・ベッケルの『モンパルナスの灯』(1958)を意識して締めくくっている。モディリアーニの作品が死後高騰したこと(「その油彩画には平均して一五〇フランの値がついていたが、死後十年するとおよそ五十万フランに高騰した。」)、投機目的の画商たちが有能な贋作者を雇ってデッサンにサインを入れさせたこと。「かつて彼は、ロトンドでアメリカの女性をデッサンしたことがあった。そのデッサンが仕上がったとき、その女性は、サインの入った作品の方がはるかに価値があることを聞き及んでいたので、モディリアーニに是非ともサインを入れるように要求した。すると彼は、その女性の目をまっすぐ見すえて、やおら鉛筆をとり、広告を思わせる大文字を使って、画面に描かれた女性の顔を横切るようにサインを入れたのだった。」(275頁)