(その七十六) 嘉男

 ともかく嘉男は、なんにも知らなかった。それだけだった。
 体重計に乗れば、いつもメーターの針は「57」のところで止まってしまう。別に何をどうしているわけでもなくて、それでも体重はずーっと一定だった。「ちょっと痩せてるかもしれないが、ともかく平均的だ」と、その自分の数値に関しては思っていた。体重の「57」が、偏差値の「57」でもあるようで、少なくともそれは心配しなければいけない数字ではなかった。欲しいというのなら、体重の方ではなく、身長の方で五センチ欲しかった。「そうなればまたなんとかなるかもしれない」と思う嘉男の実際の偏差値は、「50・7」だった。
「自分は平均的だ」と思う。「その平気(ママ)でも、特別心配する必要はない〈やや上の平均〉なのだ」と思う。「別に取柄というものもないけれども、十分に普通だから、なにも心配をする必要はないのだ」と思う。
 別に、「特別の人間になりたい」とは思わない。時々、「あと身長が五センチあったらな」と思わなかったわけでもないが、別にそれだからどうというわけでもなかった。
      橋本治「ひまん」(『生きる歓び』角川文庫版所収)角川書店 二〇〇一年二月二五日発行 236〜237頁

 『桃尻娘』で小説家として登場して以来、橋本治ほど多様な文体を駆使する作家はおそらく存在しない。橋本治は常にひとつところに留まらないジャンルに合わせて(小説、時評、エッセイ、古典の二次創作、戯曲、シナリオ、編み物手ほどき、人生相談、占い本、……)内容を書きわけるだけでなく、執筆する媒体に合わせて文体を操作する。ここでは新書で例を挙げてみよう。文中に「回りくどい」という言葉が頻出するのは彼の著述の場合さして珍しくないが、新書で用いる文体は彼の思考の特異な歩みに一致している。例えば、ある人が自分の歩いた距離を計測するとしよう。彼が右足を前に進めると、彼の歩いた距離は左足のつま先から、右足のつま先までの長さである。次に左足を前に進めたとき、彼の歩いた距離は右足のつま先から左足のつま先までの長さである。これは通常の長さの計測だが、橋本治は違う。この距離の計測はおかしいと橋本治は主張する。なぜなら、距離を測るまえに立っていた自分を計算に入れていないからである。だから、歩いた距離はつま先ではなく、後ろの足のかかとから測らなければならないだけでなく、この原則は一歩進むごとに当てはまる。つまり、つねに後ろの足のかかとから計測しなければならない。この主張は比喩で提示するかぎり、それなりに根拠があるように聞こえるかもしれない。しかし、それを文体で実践するためには、非常に「回りくどい」ことになるということを橋本治の本に接したことがある人は気づくはずだ。なぜなら、立っていた自分も計算に入れるということは、仮に文章にその判例を適用するとなると、論理を展開するために自らが使用する語彙のひとつひとつを点検しながら進む、ということだからである。そして、文章を書くということは当然のように複数のタームやテーマを同時に用いながら記述していく、ということでもあるので、先ほどの比喩に戻ると、足の形は一定していないということになる。したがって、どうしてもかかとから測らざるをえない理由が生まれるのだが、形の一定していない足の持ち主と歩きをともにすることが読書である以上、われわれは氏の足もとに注目してつき従っているうちに、歩きながら前を見ることを忘れる。橋本治の本を読むということは彼の歩みに同伴することであり、また、足は同じような形をしていても、意外なほど形状が独特で、歩く速さにも影響するし、またまっすぐ歩くか、曲がって歩くかにも影響するので、歩行が行き着く先も当然のように違う。歩きながら本を読み進め、ふと前方に目を向けると、とんでもない場所に立っている。この快楽を知ってしまったものは、膨大な量にのぼる彼の著作を一点ずつ踏破するうちに、彼の主題系が多岐にわたるのに対して主張の一貫したブレのなさに気づくとともに、彼の強靭な論理に接したときの懐かしさが単なる繰り返しを意味しないことに気づくだろう。このようにして読者への目配せとともに彼の特異な文体の論理が構築されるのだが、言語哲学の著述以外でこうした文章を駆使しているのをお目にかかることは極めてまれだといっていい。なぜなら、前に進むたびにいちいち自分の足を気にしだしたら、ふつうの人間なら歩くことすらおぼつかなくなるからである。
 私はここまでの文章を歩くことの比喩を使って説明したが、この記述方法も氏に倣ってのことである。新書とは思えない高密度で書かれたある一冊の本のなかで、このような説明方法を、橋本治は「比喩を立ち上げる」という言い回しで命名している。比喩は、彼にとって小説のもっとも原初的な核を構成している。小説とは、この比喩に肉づけし、周囲の状況を具体化し、正しいにせよ間違っているにせよ現実においてその比喩がどのように受け止められるかテストにかけることで、比喩が行き着く世界を提示することに他ならない。比喩として言い表されている以上、終点がはっきりしている。問題は、どうやってそこに行き着くかだ。初めに直観があり、その後に分析が行われる。分析は、直観を受けた以上彼にとってはすでに自明でもある結論を、本を広げた読者に解説することである。『上司は思いつきでものを言う』はそのような要請で仕上げられた壮大なひとつの比喩であり、彼がこの方法を学んだのは小説ではなく芝居からである。別の、もっと以前に書かれた書物のなかで橋本治は、芝居は感情移入できるかどうかだ、とはっきり明言している。読書行為が作者の思考だけでは成り立っていないのと同様に、観劇するとき「一人芝居をするように」それぞれの役者に感情移入しながら見ていたと橋本治は述べている。
 『生きる歓び』に収録された九つの短編は、『TALK 橋本治対談集』のなかで高橋源一郎が指摘しているように、「別に」や「どうというわけもなかった」という言い回しが多用される。とりわけ引用した「ひまん」では、「普通」という語句が頻出するように、特に目立った特徴のない男の物語である。この短編は、並みの小説家なら絶対に避けて通るか、そもそも可能性として考えない体重や偏差値の数値による性格描写が見られ、おそらくこの冒険は成功している。なぜなら、「嘉男」は「普通」だからである。しかし、「普通」とはいったい何か。
この主人公は、人生のいくつかの段階を経過するために「一応の目安」が欲しいとは思っているが、内的な基準がない(「どこ」というのは、ない。「どこでもいい」のだから、「どこでもいい」)。個別的なエピソードが語られるが、特別ではない(「いやー、別に、そんな風には全然――」)。「嘉男」が通過する大学受験から就職活動までを時期を、橋本治のふたつの簡潔な説明で計測している。「どうしよう」から「しなくちゃいけないんだろうな」。就職活動の波に乗り遅れて、「嘉男」は同級生にこう口走りさえする。「俺、なんにも考えてないんだよ。どうしよう?」。ここまで露骨だと、「普通」の男を主人公にした「ひまん」が風刺的な意図を持って書かれたものでないことは理解できるが、これまでの記述で予想がつくように、「普通」とは否定形でしか定義できないものなのである。希望する就職先が「どこでもいい」から「とにかくここ」に変わるのは、リクルートスーツを着るという画一性を身にまとうからに過ぎない。単に状況がそうさせるだけであって学生自身に必然性がないように、彼には個別性を生み出す欲求がない。それでも「嘉男」は大学に入り、就職する。ヘルスメーターの会社の仕事はつまらないが、さして不満というわけでない。それが、いつの間にか体重が増えていた。数にマイナスはあっても否定はない。数字は、この小説では唯一主人公を確定記述的に説明する要素である。そして問題は、タイトルにも示されているように、体重が「57」キロから「65」キロに増えたことである。ヘルスメーターの販売員は、「痩せてたほうがいい」という。しかし、この上司の発言は冗談だったことが判明する。それに彼が八キロ太ったことに、周囲のものはだれも気づかない。「嘉男」は果たして太ったといえるのか?
小説は、「普通」であることに気づくことは「普通」から逸脱することによって可能になる、という原則を提示するが、八キロ太った「嘉男」は自分がもはや「普通」ではないと思ったかというと、そうでもないのである。なぜなら「普通」とは、他人ですら気づかない自分の逸脱にはそもそも気がつかないものであり、たとえ数値がそう示していても、それを逸脱とは規定しないのである。しかし、ヘルスメーターが示すとおり体重は以前より確実に増加している。「嘉男」は「特別の人間」になりたいとは思っていない。偏差値と体重の数値が最も確かな普通(「やや上の平均」)の証しであり、偏差値が八上がるのなら「やや上」よりもっと上昇するかもしれないが、体重が増えただけだと自分がどのように変わったのかわからないのである。それでも「ひまん」が「嘉男」に発見させる。以前より仕事に熱心になったわけではないが、ヘルスメーターという奢侈品でも必需品でもない奇妙な器機の存在に気づく。彼は営業部にいながら、そもそも「そこら辺の町」のどこでヘルスメーターが売っているのか、考えてみたこともなかったのだ。余計な贅肉がつくことで、余計な存在に気づく。もっとも、「嘉男」はヘルスメーターと自分を同一視するわけではない。贅肉がついただけで、「嘉男」は「余計者」ではなく、あくまで「普通」の男だからだ。しかし、「普通」だと思っていたものが、ありきたりでどこにでもあると思っていたものが、どのように社会のなかで存在していたかを知るきっかけにはなる。それが個人的にどのような経験なのかを思考するところまでには至らない。「嘉男」はあいかわらず「なんにも知らなかった。それだけだった」。彼は行きつけの蕎麦屋に入って、自分が八キロ太ったことを店員に告げる。店員たちは当然のように、そもそも彼が57キロだったことを気に留めていない。「65」キロから見れば「57」キロは痩せていて、そこに至るまではかなりの変化があったはずだと思うが、「普通」の体格だと見れば「ずーっと変わってない」のである(体重や人生に限らず「普通」とはそのように存在する)。だから、店員に「変わってない」と言われた「嘉男」ははじめはびっくりするが、「もう初めからこうなっていた」と思う。さびしい気持はあるが、太っている自分を受け入れる。「そういうもんか」と思ってビールのグラスを口に運ぶ。「普通」はそのようにして、どこにでもある蕎麦屋の片隅で静かに受け入れられるのである。
この展開は面白い。ありきたりをひたすら積上げただけだが、決して似たものがない。少なくとも、橋本治は周到に、「平凡がやがて個別性を獲得する」というストーリーラインを避けて通っている。この短編集に収められた作品は、どれも練り上げられた構築物ではない。読みはじめのうちは、いたるところに作者が深めずぶっきらぼうに通り過ぎた横道が見つけられる。読者は疑心暗鬼のまま着いていくが、読み終えたときには彼の歩みが唯一の道のりだったと気づくことになる。だから、橋本治は最後にそっと教える。ヘルスメーターの販路を開拓しようとしてアイディアの浮ばない「嘉男」に、「普通」であることと「単純」であることは違うのだと。「普通」とはありきたりなのだが、回り道をさせるくらいには複雑で、とりとめがない。だから、いたって「単純」なことに気づかないでいるだけなのだ。八キロ太ったことで、「普通」という常態にどことなく馴染めなくなっていた「嘉男」は、「太っててもいい」かなと思う。それもまた「普通」かな、と「単純」に諦めて、グラスを傾ける。すると、毎日のように飲んでいた一杯のビールが、ちょっとだけおいしく感じられるのだ。