(その七十三) 日本の政治家

「悪いことをしても決して逮捕されないほどに悪い」――それが日本国民の思う政治家なのである。
       橋本治『二十世紀』(一九七四年の項)毎日新聞社 二〇〇一年一月三〇日発行 345頁

 
一九七四年は、リチャード・ニクソン田中角栄というふたりの大物が辞任した年である。橋本治は、なぜ「えらい人」が自分の非を認めないのかを、辞任と否認を使い分けるという政治家の特殊な行動様式から説明している。当事者が否認しつづける限り(「記憶にございません」)、「事実」は存在しない。よって、汚職が発覚した政治家の取る選択肢は、「認めはしないが辞任する」と「事実はないから辞任しない」の二択しかない。事実が「疑惑」に終わり、事実関係の究明がいつの間にか単なる責任問題にすり替わるという、メディアの報道も一致協力した普遍的な馴れ合い主義は、ここに端を発する。橋本治は、引用箇所のように日本人は考えているので、まさか田中角栄が逮捕されるとは思っていなかっただろうと推測する。
 われわれは、橋本治が論旨を政治家に限定することなく「えらい人」と含みを持たせたという見過ごせない事実から、目下の情勢によってはこの項目には特殊法人公益法人が入るほうがずっと適切であるという認識に自信を深めていいはずである。しかし、事実よりも連想を、行為の実効性よりも象徴性を優先し、ときには政治のごく初歩的な観測すら見誤らせるほど高度に発達した日本国民の文学的解釈から、執行府側がパニックを口実に十全な情報開示を避け、市民は本当に必要な情報が隠蔽されているのではないかと疑心暗鬼に陥るという、不毛な憶測と無根拠な代替案をまき散らす結果に終始するほかないすれ違いが生まれることになった。この状態はいうまでもなく恋に似ている。