(その七十一) ブラッサイ(ジュラ・ハラース)

 ブラッサイの「落書き」に関する仕事で何よりも特徴的なのは、それが一挙にまとめられたわけではなく、展覧会、雑誌などで、長期にわたり断片的に発表されていったということと、その都度彼が異なるスタイルの文章を試みているということである。一九五六年、エドワード・スタイケンの企画でニューヨーク近代美術館で開催された展覧会が大反響を呼び、ようやく一九六〇年にドイツで初の写真集が出版された(一九六一年パリでも出版)。実に三十年のスパンをもった作品なのである。現在では、ブラッサイの没後一九九三年に、ジルベルト夫人によって監修・出版されたフラマリオン社の写真集『落書き』(邦訳未刊行)を、決定版と見なして良いだろう。この版には「洞窟の壁から工場の壁まで」(『ミノトール』一九三三)、「パリの落書き」(『二十世紀』一九五八)、「ロンドンでの展覧会カタログ序文」(一九五八)、「ピカソとの対話」(一九四五、四六年の関連部分)という既出文のほかに、「落書き訴訟」(執筆年不詳、一九六〇年代?)という長文の論文と、最後には落書きを語る詩一篇(執筆年不詳)までが収められている。論文と詩は、それまでは未公開のものであり、しかもその詩が、この写真集の序文(散文体)とほぼ対応するものであることを「発見」して、読者は驚くに違いない。私たちはブラッサイがこの作品に注いだ並々ならぬ情熱と、深遠な哲学と、詩的精神を、垣間見られる時点にようやく至ったのである。
 フラマリオン版でさらに興味深いのは、巻末に付された手帳の影印である。ブラッサイ自身の言によれば、彼は一九五〇年代になってからようやく、落書きの取材に手帳を持ち歩くことを思いついた。各ページには約二点ずつ、落書きのスケッチとそれが彫られていた街路名および番地が書き込まれている。彼は、もっと光の状態が良い時に撮影し直す――あるいは何年か後の変化を撮影するために、その記録を付け始めたのだと述べている。思いつきの余興ではなく、あたかも自然科学の「採取」「観察」のようなおごそかな記録――それがブラッサイの「落書き」のもつ一面であった。
ジルベルト夫人の前書きによれば、ブラッサイはパリの十四区などの評判の悪い袋小路などに足を踏み入れて落書きを探し、気に入った「掘出し物」を見つけると、煙草を吸いながら、撮影に絶好な光が射し込んで来るのを何時間でも待っていたという。フラッシュ、電球などの小道具を入れるカバン。乾板やフィルムの感光を防ぐ黒い袋。対象とカメラとの距離を測るための紐(目印の結び目あり。ブラッサイはこの古風な方法を愛用した)。そして木製の三脚――これらが彼の七つ道具であった。最初に撮影してから十年後に、「時間のもたらす風化を確認するために」再び撮影することが、無上の喜びを彼にもたらしたのであった。時にはその辺のわんぱく坊主たちが、とっておきの「傑作」を教えてくれることもある。ドクロマークに、いつの間にか誰かが体を描き足した図――十四区のは、「カエル」、十五区のは「キリン」と呼ばれている。「――ただし場所は秘密」!
         (中略)
ブラッサイによれば、壁は、タブローとは全く逆に、雨や風、湿気、気温などの条件と、時間の中で、ゆっくりと生成する存在である。時にはぼろぼろになった壁ほど、「マチエールの豊かさ、触覚の誘惑、微妙な色合いや、色調の繊細さ」によって、類稀な美しさをあらわす。そして壁の上にできたひび、きず、しみ、汚れ、穴、磨耗などの跡は、人間の想像力に多義的な「かたち」を呼び起こすのである。かつてレオナルド・ダ・ヴィンチは画家にその想像力を育て、解放するために、壁の亀裂を眺めながらイマージュを連想することを説いたが、ブラッサイもまたこの逸話を引きながら、壁の生成について語っている。
       (中略)

写真と絵画の間には、決定的な相違が存在しています。写真は確認し、絵画は想像します。写真は記録であり、記録にとどまり続けますが、絵画は、完全に個性にもとづいています。もし個性がそこに欠けているならば、すべては、ぶちこわしとなった美しいマチエールの山に、瓦解してしまうのです。
          (ブラッサイ「潜在するイマージュ」一九三二年、今橋氏訳)

ブラッサイが写真家としてこだわり続けたこと――それは「レアリスト」であるということだった。……ブラッサイは、アンドレ・ブルトンたちと度々仕事をし、マン・レイと並ぶシュルレアリスト写真家として期待されていたが、彼はこれを明確に否定している。あたかも、シュルレアリストたちの誘いを、「自分は職業写真家だ」として断り続けたウジェーヌ・アッジェのように――。
ブラッサイは、「イマージュの狩人」とも呼ばれる。ヘンリー・ミラーが評するように、「ブラッサイは、同時代の多くの芸術家たちが軽蔑していた、類い稀な才能――すなわち〈ノーマルなヴィジョン〉」をもっていた。彼は二十年代写真界のモダニズムの潮流のかたわらにあって、変革のフォルムというよりも、むしろ認知された美の周辺、現代生活の周縁、忘れられたり破棄されたりしたものの中にこそ「新しさ」を発見するレアリストであった。「極限まで推し進められた現実性は非現実性に達する」というジャン・ジオノの言葉を好んで引用して、「もっとも日常的な現実から出発して超現実にいたる、これが写真における私の目標、唯一の関心、そして実験なのだ」と語ったのもまたブラッサイである。それは、ジャン・コクトーが「くず屋の王様」という仇名を奉ったピカソが、ぼろやくずをアトリエいっぱいに集め、その中から思いもかけない、単純にして幻想的なオブジェをつくり出していった手つきにも似ている。あるいは、歴史のくずやぼろのなかから、過去を覚醒させようとしたベンヤミンの哲学にもまた、通ずるのではないだろうか。
         今橋映子「都市の痕跡と写真――ブラッサイ『落書き』」(『パリ・貧困と街路の詩学――一九三〇年代外国人芸術家たち』都市出版株式会社、一九九八年五月二十九日発行に所収)233〜234、253〜254頁