路上にて

スーパーマーケットに行った帰りの道で、路上に倒れている自転車があった。よく見ると、自転車には老婆がまたがっていた。サドルに座り走っていたそのままの姿勢で、そっくり九十度転倒したかっこうだった。夜の七時を過ぎたところで、他に人通りはなかった。私は避けようと思ったが、気配を察知したのか老婆は突然うめき声を漏らした。照れ笑いのような声だった。こういう声は、本当は聞いてはならない。しかし、たしかに私はそれを耳にした。しかたがなく近寄り、抱き起こすことにした。焼酎の匂いがぷんと香った。自転車ごと起こそうとしたが、車輪が回転して前進したり、ペダルが地面をこすったりしてうまく起き上がらない。買い物籠からりんごが転がった。私は声をかけて、肩に右腕を回して、首に抱きついてくださいと言った。力仕事をしているくせで、大声で叫んだ。老婆はなおも照れ笑いを浮かべた。色っぽいどころではない。ようやくふたりで地面に垂直に立ち、からだを離すことができた。
「この居酒屋にツケがあってね、払いにきたのよ。もう二ヶ月前のだから。そしたら転んじゃって、起き上がれないし、店の人は出てこないし。どうしようかと思って」と勢いよくしゃべると、私のほほに手を寄せ、あら、いい男じゃないの、とつぶやいた。笑った歯茎の血色は驚くほどよかった。こうして、私は山本しずえと出会った。
 しずえに誘われるまま、私は居酒屋の暖簾をくぐった。
 店のものはいい顔をしなかった。その理由はわからなかった。知らん顔のしずえはビールを頼み、私のスーパーマーケットの買い物袋の中身を見つめ、再び私を見た。
「こんな出会い方もないんだから、飲んでいきなさいよ」とビールを注いだ。そして、また思い出したように、私を見て、あら、ほんといい男ね、とつぶやいた。
 私は恐縮して、辞退しようとしたが、店のものが、いいじゃないの、おごらせちゃえよ、と横やりをいれた。その横柄さは癪に障ったが、私はビールを飲んだ。喉が渇いていたのか、一気に飲み干してしまった。しずえが注いで、私はまた飲み干した。
 常連らしい客が来たときには、いい具合に酔いが回っていた。その間、しずえは孫と同居していること、買い物をしたのは、その孫に手料理を振舞うためであること、娘はろくでもない男と付き合っていること、孫がかわいくてしかたのないこと、行きつけの飲み屋が他にも数軒あること、いつでも新しい仕事を始められる準備だけはしていることなどを矢継ぎ早にしゃべった。その間も、気づいたように、あら、いい男ね、を連発した。そして、自分では一口くちをつけただけのグラスを脇に寄せて、私のグラスに際限なくビールを注ぐのだった。孫の話をしているときは、ふと現実に戻る瞬間があるようで、あなたの買ったスーパーマーケットの肉はよくない、特にひき肉が悪い、と指摘した。
 常連らしい客は、しばらくカウンターで飲んでいたのだが、私と眼が合うと、微笑を浮かべて近寄ってきた。
「このばあさん、打ちっぱなしオーケーだから」

 私は最初その意味がよくわからなかったが、よくわからないふりをし続けるのはよくないと判断した。店の者の冷たい目もそうだ。私は、ことの経緯を説明した。
「なんだ、しずえさんのいいひとじゃないのかよ。本当のいいひとかよ」
 私ははたして自分の価値が下がったのか、上がったのか判断がつかなかった。
 それから客はもとの席に戻り、同席の者にひとしきりしずえとの経験談を話し出した。自分のも、自分以外の男のも含めて。私はしずえを見た。聞こえているのか聞こえていないのか、よくはわからない表情だ。照れてはいなかった。
 しずえはその後も気前よくビールを注いだ。少なくとも、娘の孝子が来るまでは。
 孝子は、さも汚らわしい目で私を見た。私はもう慣れてしまっていたので、釈明はしなかった。ビールを飲み干した。しずえは注がなかった。私はビンを振って、おかわりを頼んだ。
 孝子は、カウンターで背を向けて飲んでいた。しばらくして男が来た。年下の男だ。孝子は男にしなだれかかり、ちくわを注文した。
 しずえはまだ孫の話をしていたのだが、ふいに娘のほうを向くと、お前母親だろうと叫んだ。
 一瞬の出来事だった。
 孝子は振り返り、うるせえアル中と叫んだ。どちらの指摘も正しかった。その場にいるみなが思わず同感したくらいだ。だから問題は、言葉ではなく人間のほうにあったのだ。
 しずえは立ち上がり、驚くほどの力で孝子を蹴りつけた。孝子も負けじと、しずえの髪を引っ張った。
 私は間に立とうとしたが、酔いで足もとがふらつき、巻き添えを食った。ふくらはぎに強い衝撃が走った。「ケンタはいま家にいるんだ。親が帰ってくるのを待ってんだ。お前なんか母親じゃねえ。待ってるのはあたしだ」
「だったらはやく帰れよばばあ。気もちのわりい若い男なんか連れてよっ」
私は完全に部外者だった。それは、こうした身内の喧嘩の場合、あまりよくないことなのだ。
 すっかり酔いが醒めたしずえは私をにらみ、お前だれだ、と叫んだ。
 私にも、自分がだれで、どうしてここにいるのか、もはやわからなかった。
 喧嘩が小康状態に入ったわずかのすきに、会計を済ませようとした。
 しずえが割り込んでくることはなかった。私はそれを期待したのかもしれない。なけなしの三千円を置いて、ほうほうの体で逃げ出した。
 しばらく自転車で知らない路地を走った。風が心地よかった。時計を見ると、十時を回っていた。
 ポケットには、山本しずえの電話番号が記された、メモ帳の切れ端が入っていた。酔いのせいばかりとはいえまい。記憶がないなどとはいえなかった。