(その二十)  テオドール・ファン・ゴッホ

 このころ、テオは、フィンセントにはできなかったやり方でフランスの美術界に地歩を築くようになっていた。画家の生活につきまとう困難を自分の目で見ていたテオにとって、兄の単純さは驚くばかりだった。工房と有名な画家、美術学校とサロンの複雑な相互関係を見てきたテオは、彼らがスタイルを確立し、評判を築き上げていくやり方に接して、周囲の援助なしに成功する人間などいはしないのだということをよく承知していた。実際、フランスの首都で過ごした最初の二、三年にテオが見、かかわった世界はすべてが目をみはるものばかりだった。それでも、テオの学んだことは芸術的な刺激を求める知的な若者の気晴らしの域をはるかに越えていた。フィンセントがブリュッセルで画家になる方法を思案していたころ、テオはそんなステップが兄にとってどういう意味をもつかを考えていた。まるで二人がいっしょになって一人の創造的な人間を生み出していくかのようだった。二人がともに暮らすようになるのはまだ六年先のことだが、テオは二人がいっしょになれば、兄はぴったり寄り添ってくるはずだと覚悟していた。フィンセントが画家になろうと決心し、初めて弟に援助を求めた瞬間から、テオの一生は兄と分かちがたく結びついたのだ。けっして意図したわけではないが、テオがパリの美術界で経験したすべてが兄の新しい仕事に大きな影響を及ぼすことになる。のちにフィンセントもそのことに気づいて、テオこそ自分の作品の共同制作者だとはっきり主張するようになるのだった。
 もともとは、あまり共通点のない兄弟だった。まる二年もボリナージュに閉じこもっていたフィンセントには、自分が辞めた会社で弟がどれほど素早く出世していったかを想像することもできなかった。一八七八年、二一歳のテオはパリに着いたが、大それた野心はもっていなかった。伯父の影響力は弱まっていたし、どちらかといえば控えめな性格からしても上司の目にとまるとは思えなかったのだ。だが、おとなしく控えめだったにもかかわらず、テオは興味のもてる対象については徹底的に研究するタイプであり、やがて同僚よりもずっと美術の知識が豊富だということが目につくようになった。しかし、テオに劇的な出世の道が開けたのは、偶然のチャンスのおかげだった。一八七八年、コミューンを残酷に制圧した張本人であるマクマオン大統領の率いるやや不安定な政府は、ドイツの侵略とそれにつづく首都包囲の「恐怖」がすでに終焉して、パリがかつての姿を取り戻したことを世界に知らしめようと考え、大規模な国際博覧会を催すことになった。開催場所はアンヴァリッド前の広場とセーヌ川をへだてた対岸のゆるやかな斜面に決まった。そこに建設されたトルコ風の巨大な円形建物は、アルベール・グーピルなら大喜びしそうだったが、大方の評判は芳しくなかった。トロカデロ宮と呼ばれるその建物は現在のシャイヨー宮のある場所に建てられたが、一九三七年の万国博覧会でとりこわされた。トロカデロは芸術と文化を扱うメイン会場だった――工業と通商はセーヌ対岸のシャン・ド・マルスに追いやられていた。当時の文化的な混乱状態を象徴するかのようにトロカデロは不調和なディテール――孤を描くローマ風のアーチから中世風のランセット・ウインドーまで――をにぎやかに組み合わせた煉瓦造りの大建築物だった。その内部にグーピル商会も展示場を設けて画廊が推奨する画家の作品を並べることになり、若いテオが現場の責任者になった。テオは作品をやっと一点売ったが、それが意外に思われたことからもわかるように、グーピル商会の展示は商売の機会というより一種の宣伝活動だったのである。だが、テオが一人で留守番をしていたとき、急に見物人が道を開け、大物や有名人が出現したときのように、あたりがしんと静まりかえった。マジェンダ公爵にしてフランス第三共和政府二代大統領、マリ‐エドメ‐パトリス‐モーリス・ド・マクマオン卿その人がテオの目の前に立っているではないか。時の人が博覧会を視察に訪れたのである。白髪と白い頬髭のマクマオンは見た目はいかにも好々爺といった感じだったが、腹の中では陰謀をめぐらす食えない老人であり、そのときも新しい共和政府の実権を最右翼および基本的に旧体制側にくみする王政主義者の手で握ろうとするクーデタ計画を練っているところだった。一年とたたないうちに追放されることになるのだが、このときはまだ注目の的であり、その面前に無名のオランダ青年が立つことになったのである。テオは突然の出会いに動じもせず、大統領の質問にできるかぎり答えた。この老人が歩を進めるときには、テオの出世は決まったも同然だった。
   デイヴィッド・スィートマン『ゴッホ 百年目の真実』野中邦子訳 文藝春秋190〜193頁