それぞれの背中  小津安二郎 『東京暮色』(1957)

女が宿命的にかかえる不幸は、結婚という行事によって分断される。結婚するまえには結婚するまえの不幸が存在し、結婚したあとには結婚したあとの不幸が存在する。このいたって単純な法則が支配する小津安二郎の後期の作品『東京暮色』(1957)には、もはや不幸を解消する道が残されていないかのような印象を受ける。小津の映画ではどれでもそうであるように、杉村春子が重要な役割を帯びる。彼女は、ほんのことのついでといった調子で、笠智衆の家族にやっかいな報告をもたらすだろう。1950年代の活気を帯びてきた東京で暮らす生活人である彼女は、出歩くときはいつでも用件を六つも八つも抱えていて、たえず忙しそうに振舞っているのだが、家族の不和のもとになる事件は、もっぱら彼女のような、ことさら問題の優先順位をつけない人間によって知らされる。何が重要で、何が重要でないか。この基本的な価値観の相違が、『東京暮色』における不幸のすべての原因であるといってもよい。だから、妊娠をした女にとって、まだ光を見ぬ子どもの将来をどうすべきかは大問題だが、学生に過ぎない男にとっては、六時に大学の教授と会う約束のほうが先決なのだ。
この映画は、『晩春』や『麦秋』で父から送り出された娘である原節子が、ようやくよちよち歩きのできるようになった娘を連れ、実家に帰ってくる場面から始まる。結婚はうまくいかず、女は不幸なのだが、その不幸はいまだ当事者の固く閉ざされた口から明るみに出ることはない。娘が訳も告げずに帰ってきたのをさして気に留めず、笠智衆は見当はずれな調子で問いかける。話の核心をはぐらかすように、娘は反射的に父の世話を焼く。笠智衆が背広を脱げばさっと腰を浮かして着物を肩に当て、足袋に履き替えるために脱いだ靴下を瞬く間に拾いあげる。こうした原節子の手馴れた動作に、われわれはその不幸の種類を類推しようとすることもできる。つまり、彼女は家庭的に振舞うことになんら抵抗を抱いていない以上、夫婦が不仲になる理由はわかりきっている。「会っても不愉快になるだけよ」。しかし、映画は禁欲的なまでにその理由を明らかにしないだろう。この映画では、不幸は解消するものではなく、たんに持続するものだからだ。
結婚したあとの不幸から、結婚するまえの不幸への話の移行は、極めて美しい。ふと原節子が首をかしげ、戸を見つめる。音もなく戸のうしろから有馬稲子が姿を現すそのショットは、まだ家庭という重力の不幸を背負っていない女の軽さを、まるで幽霊か何かのように描き出している。もっとも、有馬は反対の極に、すなわち、家庭の手前に留まらざるを得ない不幸に捕われている。
有馬には、仲間内ではそれとわかるボーイフレンドがいる。おなかには彼の子どもを身ごもっているのだが、責任を取るつもりなどさらさらない男は、居場所をくらましていて、なかなか出会うことができない。男ばかりのタバコの煙が立ち込める安アパートにも、雀荘にも、珍々軒という妙な名前の中華そば屋にも、仲間のひとりがバーテンを勤めるバーにもいない。ここでは、そう遠くない昔ならアプレともオキャンとも呼ばれた娘の放逸な生活実態が簡潔に提示されるだけではなく、映画はにわかに追跡劇の調子を帯びてくる。追跡劇は、二重の照明に照らされた影を追うことになる。一方を追うことは、他方を追うことにつながる。というのも、この影は結婚という共通の二字から伸びていているからだ。有馬は、娘としての正当な直感から、雀荘の女主人がまだ見ぬ自分の母親かもしれないと思うが、父親が出征中、母親が若い男と出奔した事実から考えて、自分の父親が、実はこのまだ会ったことのない若い男なのではないかと疑う。したがって、原節子にとっては、笠智衆という父がいて、当然のように帰るべき我が家が、有馬にとっては身の置き所のない空間に過ぎなくなる。本当の父親はだれなのか。父親本人に問うことのできない有馬稲子は、家を飛び出し、やがて種を宿した男を探し当てるが、自分の子どもかどうかわからないとうそぶく男に幻滅し、堕胎を決意する。そして、雀荘の女主人に会い、自分の本当の父親はだれかと問いただす。山田五十鈴は娘の誤解を解くため、父さん(笠智衆)のほかにだれがいるの、と答える。有馬にはそのやり取りが、ボーイフレンドとのやり取りを裏返した会話のように聞こえ、思わず自嘲とも安堵ともつかない涙を流すのだが、自分の子どものことを聞かれると、一転してにわかに表情が変わり、罵倒を浴びせて立ち去る。この場面は、正対した親子が膝を突き合わせて見つめあう切り返しで演出されるのだが、『父ありき』の笠智衆佐野周二の釣りの場面から一貫して親子の親愛を、むしろ同じ方向を向く肩を並べたふたりの背中にカメラを向ける構成で描いてきた監督にとって、正面で向き合うなどということはそれだけで過酷な事態なとならざるをえない。「お母さん嫌い」となじられ、追うこともせずじっと耐える山田五十鈴は、やや視線を落とす。そして、カメラは斜め後方から、身動きもせず正座する山田の背中を映し出すのだ。この背中のカットが決定的なのは、並び立つものも、向き合うものもいなくなり、ただひとりで耐え忍ばねばならない種類の不幸だからだ。女たちは、決まって二者択一の問題を突きつけられる。杉村春子が紹介しにくる見合いの相手ですら、きっちりとふたりなのだ。選ぶか、選ばないか。ここにもすでに二者択一がある。そして、どちらを選んでも、不幸の種は蒔かれるように、背中のカットはその不幸が追いついた瞬間なのだ。
笠智衆から、「また何かあったのか」と問われる原節子は、淹れたてのお茶を渡し、座ったまま腿に肘を押しつけるように屈みこむ。男から空約束を掴まされた有馬稲子は、腰をかけた防波堤で涙を拭うのも忘れて呆然と座り込む。いずれのショットも、女の背中を映し出している。『東京暮色』においては、女がかかえる宿命的な悲哀は、微動だにしないその背中にのみ宿るのだ。それは、内面的動揺のみを示す、珍々軒での男の正面からのショットと鋭い対比をなしている。女の両肩に宿るのは、諦念ではなく、うまくいかなくなった家庭の問題について、たったひとりで決めなければならない、その決断までの猶予でもある。仮に諦念から始まり、諦念を経過し、満足のいく結果にならないとしても、最後には行動がある。いずれ山田五十鈴は東京を去り、有馬稲子は堕胎を決意し、原節子は夫のもとに戻るだろう。女の決断は、和解には向かわない。ひとりで和解はできないからだ。その意味で、女のあらゆる決断は、不実となる。女たちが不実にならざるをえないのは、和解したい本当の相手が、実際のところ、その伴侶(となるべき相手)ではないからだ。たとえば、結婚をするという取り決めは、夫と妻ではなく、父と娘の間で交わされる。この極めて小津的な事実は、小津の映画の登場人物が、先行する作品の登場人物の過不足ない類型であり後継であることと無関係ではない。和解をしたいという意志は、(夫婦という立場から見て)常に第三者の位置にある人間に向けられる。したがって、誠実でありたいという気持ちが向けられるのも、また第三者にあててでしかないのだ。この誠実さは、甘えに似た未練になりやすい。長らく離れ離れだった娘と、不満足なかたちでしか再会できなかった山田は、北海道に旅立つ列車のなかで、喧嘩別れをした娘の原節子が、それでも見送りに来ているのではないかと車窓をせわしげに眺め回す。胸元からハンカチを取り出し、曇った窓ガラスをこする。この場面が真に胸を打つのは、山田の期待がまったく場違いなものでしかないからだ。喧嘩をしたあとに訪れるのは、仲直りではなくて、たんなる別れでしかない。原節子は会いに行かない。そして、この非情ともいえる決断を下したのは、もっぱら父である笠智衆のためなのだ。
では、この三者の女性の背中にもたらされる不幸の源泉となった、家庭とは何か。われわれは、それを明示的なかたちで見ることはほとんどできない。というのも、どの家庭も破綻しているか、破綻の上に成り立っているからだ。そして、破綻をつくろうすべは、目下のところ見出しえない。むしろ、それは以下のような場面で見つけることができるだろう。兄の笠智衆を誘ってうなぎ屋に入った杉村春子が、その家庭の話を切り出したときに、ふと店員が来たのを察知して、眼を上げ口をつぐんだささいなしぐさに(しかも彼女はそのあとすぐにおしんこの催促をするのを忘れない)。また、街娼と間違われてしょっ引かれた妹を引き取りに来た原節子の顔を覆う、不釣り合いなほど大きな白いマスクに、それは表されるだろう。家庭とは、口をつぐんだり、他人の眼をはばかったり、言いよどんだりするかすかな間にだけ存在する。家庭は筋書き上の設定ではなくて、ある特定の場で、人物相互のやりとりがなされる間にだけ存在するのだ。しかし、それだけではない。雀荘で、まだ自分を母親だと気づいていない有馬を、山田五十鈴はお茶に誘うのだが、気のない返事ばかりが返ってきて、手をつけられないまま卓上で湯気を上げる茶碗にも、もしくは、原節子がいなくなったあと、衣裳棚の上にひっそりと忘れ置かれた遊具にも、それは宿るのだろう。だから、それは当事者にしか感じ取ることができないという意味で、きわめて演出上のことがらであるといえる。ここで挙げることができるのはわずかな例でしかない。小津の大胆さは、つつましやかな動作を、ひとが注意を引かずにはいられない動作にまで高めながら、なおひとつの動作だけが意味を過剰に担いうるような極端さを排除したところにある。これは、演出家としての謙虚さからきているというよりも、むしろ誇張された表現を用いることへの揺るぎなき自信から来ていると見るべきだろう。
映画は、ふたりの娘がいなくなり、女中にてきぱきと指示を下す笠智衆の、家の前の明るく照らされた坂道を下っていくありきたりな通勤風景で終わる。そこでもやはり背中が映し出される。冒頭の場面と円環をむすぶ笠智衆の背中に、悲哀は存在しない。なぜなら、ひとが決断をしなければならないのは古い生活と新しい生活の間だけであり、とにもかくにも新しい生活はもう始まっているからである。