(その十八) 横山やすし
破滅型というマスコミ用語がある。
ぼくが少年のころは、太宰治や坂口安吾がそう呼ばれていた。太宰治はそうかもしれないが、坂口安吾はどうなのだろうか? 近頃は色川武大をそう呼ぶ人がいるが、あまりにも大ざっぱ過ぎはしないか。
つまりは、健全な一般市民とは違う危険な生き方をする人の意味なのだが、近頃はある種のサラリーマンの方が破滅型になり得る気がする。
ま、それはどうでもいい。いずれにしろ、破滅型とはコトバが立派過ぎ、大げさである。
言葉にこだわっていたらマスコミは商売にならないから、勝新太郎も横山やすしも〈破滅型〉のレッテルで処理される。だが、横山やすしについていえば、〈自滅型〉という方がぴったりくる気がする。
何故そう見るかというと、すべてが彼自身の〈思い込み〉に発しているからだ。
少年時代、ピアノの上にちょこんと乗っていた(と小学校の先生が語っていた)小柄なやすしは、人生を勝ち負けだけで考えてきた。最初の自伝を読めば、それは明瞭である。
しかし、人生、勝ち続けることはあり得ない。具体的にいえば、中年に入っても不遇の森繁久彌は酒を飲み、小田急線のレールを枕に寝ていた。渥美清は、失敗したら、じっと寝ているしかない、とぼくに語った。萩本欽一は、失敗をした時は、きれいな形で倒れるだけだ、と言った。
人生のレースにすべて勝つ、なんてことはできっこない。〈少年天才漫才師〉ともてはやされたスタートが出来過ぎだったのである。
普通だったら消えてしまう最初の傷害事件のあとで人気が再燃したのは、才能のせいもあるが、つきが大きい。努力型のきよしが相方だったので、才能を充分に発揮できたともいえる。
きよしが離れて行った時、やすしは四十二だから、人生の設計をもう一度やり直すしかなかった。(ぱっとしなかった渥美清が映画「男はつらいよ」に主演した時は四十一だったのである。)きよしに負けたという〈思い込み〉が酒になり、事件を起こす。それがまた酒に走らせる。
もっとも、やすしには他の一流芸能人とちがうなにかがあった。それがどういうものかはぼくにもわからない。内部から突き出る自滅衝動と一応はいえるが、〈負けた〉と決めた瞬間から、すべてをマイナスの方向で考えてしまう気がする。
小林信彦『天才伝説 横山やすし』文芸春秋269〜270頁