日記

湯屋にて

私は最近いくらか抜けている。『浮世床』を読んでは寒気に震え、部屋に閉じこもっても近隣の建て直しの工事音が耳について離れない。たまりかねて、私は銭湯の暖簾をくぐった。 服を脱いで引き戸を開けると、視界が曇ったので初めて眼鏡をかけたままなのに気…

本屋にて

吉祥寺のビルの地下にある本屋で、以前から気になっていた本を探していると、女が声をかけてきた。かげでこそこそしかけたいたずらを見つけられた少年のように、私は身をすくめて手に取った本を急いで棚に戻した。声の主に目線を移すと、女は私ではなく本棚…

会話

何日かまえの早朝、スーパーマーケットで水を買おうと手を伸ばすと、横から現れた主婦にむしり取られた。その話をすると、彼はさも興味なさそうな顔でうなずいた。 「世のなかには買占めを糾弾する声もあるそうだが」と彼は前置きしてつづけた。「そんな未練…

喫茶店にて

「くじらのめだか」がその男の口癖だった。本人の弁のしからしむるところによると、こっぴどく上司に叱られてしょげ返っている同僚を慰めにいったところ、デスクに座る同僚の背中越しに、真っ黒く塗りつぶされたメモ帳が見えた。その黒は一定の速度で円を描…

電話にて

Kから二週間おきに電話があった。私の携帯電話は、着信音が四回鳴ると、留守番電話サービスに接続される。日ごろ顔を合わせていない相手や、仕事上のやり取り以外の電話には、この四度の着信音の範囲内ではどうしても出る気にならなかった。だから地元のK…

電車にて

「どっちかっていうと、詩人になりたい」と、私に告げた女がいた。驚くほど無愛想な女で、その続きを聞くことをためらい、どうしてそんなひと言が飛び出してきたのか忘れてしまった。いつもだらしなく口を開けている女で、耳をあてて近づいてみると、どんな…

路上にて

スーパーマーケットに行った帰りの道で、路上に倒れている自転車があった。よく見ると、自転車には老婆がまたがっていた。サドルに座り走っていたそのままの姿勢で、そっくり九十度転倒したかっこうだった。夜の七時を過ぎたところで、他に人通りはなかった…