(その二十二) トマーシュ

 「私」というものの唯一性は、人間にある思いがけなさの中にこそかくれているものである。すべての人に同じで、共通のものだけをわれわれは想像できる。個人的な「私」とは一般的なものと違うもの、すなわち、前もって推測したり計算したりできないもの、ベールを取り除き、むき出しにし、獲得することのできるものなのである。
 医療にたずさわったこの十年間というもの、トマーシュはひたすら人間の脳について研究し、「私」よりとらえがたいものは何もないことを知った。ヒットラーアインシュタイン、プレジネフとソルジェニツィンの間には差異よりもはるかに多くの類似がある。もしそれを数値で表現できるなら、両者の間には百万分の一の差異と、百万分の九十九万九千九百九十九の類似があるであろう。
 トマーシュはその百万分の一を見出し、とらえたいという強い欲望にとりつかれていた。彼にはここにこそ彼が女に夢中になる理由があるように思える。彼は女に夢中になるのではなく、その女一人一人の思いもよらないところにひかれるのだ。別なことばでいえば、一人一人の女を違ったものにする百万分の一の差異に夢中になるのである。
(おそらくこの点で、彼は外科医であるという情熱と、女好きという情熱が接していたのだろう。彼は恋人たちといるときでさえ、想像上のメスを手放しはしなかった。そして、その者たちの奥深くにあるものを得ようと切望し、そのためにその者たちの表面を切り開く必要があったのである。)
 もちろん、われわれはその百万分の一の差異を、よりによってセックスに求めようとするのかと質問することができる。差異をそれぞれの女の歩きぶりとか、グルメ嗜好とか、芸術的趣味に見出しえないのであろうか?
 もちろん、百万分の一の差異は人間の生活のあらゆる領域に存在するが、それはどこでも公然と白日の下に晒されていて、それを探す必要もなければ、メスを使う必要もない。もしある女がケーキよりチーズのほうが好きであったり、別な女がカリフラワーに我慢ができないというのは、その女のオリジナリティのしるしではあるが、しかし、このオリジナリティは、まったく無意味で、むだであり、それに注意を向けたり、その中に何か価値を捜し求めるのは何の意味もないことである。
 ただセックスにおいてだけは、百万分の一の差異が貴重なものとしてあらわれてくる。というのは誰でもが得られるものではなく、努力して得られるものだからである。半世紀ほど前には、女の愛を勝ちとるために多くの時間を捧げなければならなかった(何週間も、ときには何ヶ月も!)。そんなわけで獲得のために捧げられた時間が獲得されたものの価値をはかる物差しとなった。今日でも、たとえ獲得のための時間が大幅に短くなったとはいえ、セックスはその中に女の「私」を秘めた金属の箱として依然としてあらわれるのである。
 すなわちそれは喜びへの願望ではなく(喜びはおまけのようなものとしてやってくる)、それが彼を女の追求に向かわせたその世界を得ようとする(世界という横たわっている身体をメスで開ける)願望である。
     ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千葉栄一訳 集英社229〜231頁