(その二十三) チャールズ・スペンサー・チャップリン

 チャールズ・チャップリンがはじめてカメラのまえに立ったのは、一九一四年一月五日、『成功争い』であった。この映画は喜劇俳優で製作者をも兼ねていたヘンリー・パテ・レールマンによって演出された。そのむかしバスの運転手をしていたこのオーストリア移民は、ニューヨークに上陸したとたんに撮影所にのり込んできて、ふてぶてしくも、かの有名なパテ兄弟商会の代表者だと大見栄をきったのである。かれは頃合いを見て、マック・セネットのもとを去り、ケッセルとボーマンの競争会社カール・レムレの創設した、トランスアトランティク撮影所のフォード・スターリングのもとに移ろうとしていた。
 気取り屋で小柄なイギリス人の「ライミー」をデビューさせる任務を仰せつかったパテ・レールマンは、チャップリンに、文なしのくせに貴族になりすまそうとする山師の役を与えた。最初のシーンから、チャップリンはこの映画に役者としても出ているレールマンから、五フラン貨幣をちょろまかしている。
 この映画のために、チャップリンは粋な衣装を選んだ。シルク・ハットに長い灰色のフロック・コート、糊のきいた袖口と気取ったネクタイ。靴といえばニスぬりの立派なものである。ふさふさした口ひげは、山師が相手を盗み見するときの片眼鏡のようにふてぶてしい感じがした。
 この悪党は、立派な家庭に入り込み、娘をくどく。娘は豊かなブロンドの髪を大きな花模様のリボンで結んでいる。山師の上品な見てくれが、母親の気に入ってしまう。この肥った母親は、絹の衣装をまとい、羽毛の首巻きをして、スペイン風の豪華な別荘に住んでいた。そこに娘のフィアンセで、五フランをちょろまかされた間抜け野郎がやって来て、このにせ貴族は、一文なしの素寒貧だ、とばらす。そんなことなど問題ではない。山師は些事には拘泥せず、自分で金をかせぎ、財産をつくろうと決心する。かれは新聞記者として雇われる。出世できるか否かは、一枚のセンセーショナルな写真にかかっている。かれはその写真を恋敵から盗み、気狂いじみた追いかけっこがはじまる……。
 キーストン映画のほとんどは、「追いかけっこ」であり、しかもハリウッドでも最低の費用で作られていた。妙なころびかたをしたり、クリーム・パイを顔にぶっつけたり、しりをけとばしたり――そんなどたばたが、マック・セネットを成功させたのである。役者たちの多くは、サーカスやミュージック・ホールの出身者で、かつては道化やアクロバットをやっていた連中であった。かれらは、たいていの場合、映画のなかでも、舞台で成功したときの衣装を使っていた。
 チャップリンも、カーノのパントマイムでさまざまな役をやっていた。二ヶ月のあいだ、かれはかつて演じた多くのタイプのうちで、どれを選ぶか迷っていた。口ひげの型を変えてみたり、あごひげをつけたりした。帽子や靴も何度となく取りかえてみたが、あの有名な小さなステッキを選ぶ決心は、すぐにはつかなかった。十本の映画に出演したのち、やっと選択はきまった。それはおなじ衣装をつけ、おなじメーキャップをし、おなじしぐさをすることであった。一九一四年の春から第二次世界大戦に至るまで、チャールズ・チャップリンが映画に出るときには、かならず小さな口ひげをつけ、ステッキを手にし、だぶだぶの靴をはき、あひるのような歩きかたをしたものである……。
    ジョルジュ・サドゥール『チャップリン 増補版』鈴木力衛・清水馨訳 岩波書店52〜54頁