ジャンルという掟から逃げ延びることはできるか  ヤング ポール『真夜中の羊』(2010)

ジャンルという規則
 その一本のフィルムが映画と呼ばれる以上、あるジャンルに属しており、ある特定のジャンルに属している以上、約束事には事欠かない。ヤング ポールの映画『真夜中の羊』(2010年)では、ホラー映画の約束事が、いたるところで反復される。腐臭を放つ死体であれ、宇宙のかなたの酸を宿す未知の生命体であれ、人格を操作する霊や寄生虫であれ、彼らの姿は変われどその従順な本能のおもむくままに、生命を持ったものを追いかけずにはいられない。ホラー映画に今なお流れ続けるこの皆殺しの歌は、まだ生きながらえているものだけが聞き取ることのできる、稀有な響きだ。一度その歌を聴いたものは、ただ逃げ延びることしかできない。と同時に、開けるとろくな眼にはあわないと分かっていながらも、堅く閉じられたドアを開けずにはいられない。ドアの隙間からは、ユーモアを知らない無数の血まみれの腕が、つかみかかってくるだろう。ドアを開けたとたん、絶叫か、さもなくば血しぶきが上がる。そうでなければ、それはドアではないのだ。そして、ドアを開けたり全速力で走ることが、まったく問題の解決にならない以上、ホラー映画は探偵映画の対極に属している。探偵映画のなかでは、探偵の行動によって過去に何人かの人間が折り重なることによってできあがった、ある事実に突き当たる。それが真実と呼びうるものかはともかくも、ただひとつの事実には違いない。探偵映画の探求は、結末の(過去の)唯一性に保証されている形而上学なのだ。
われわれは、ドアの向こうにあっけなくばらされた人間の肉体を期待せずにはいられないし、人間の肉体がばらされるにいたった原因を探らずにはいられない。しかし、このふたつの欲求を同時に満たすことはできない。だから、ドアを開ける行為が何を導くかは、ジャンルが定めたひとつの規則に従うのだ。『真夜中の羊』では、このジャンル自体の取り決めを思い出させるエピソードが、中盤に登場する。その人物は、ソファに深々と座り、ゆっくりとくゆらせる間もなくタバコを指先でぴんと宙に飛ばす。街に起こった不可解な事件はこの人にしか解決できないと嘱望され、廊下と上り階段に等間隔に立ったスーツ姿の男たちを引き連れ、いざ出陣する。しかし、その直後にだらしなくも道に迷い、さして土地勘がなく地図すら携帯してこなかった部下を残してひとり見通しのいいT字路にさしかかったところで、突然車にはねられる。バンパーと電柱に挟まれて即死した男は、まったく脈略なく路上に倒れているトラックの運転手を除けば、この映画のなかで唯一死を与えられた男として記憶すべきなのだが、死の理由はひとえに彼が別のジャンルの規則にしたがっていたからなのだ。
 ホラー映画に探求の姿勢がまったく役に立たないということは、ゾンビ映画を思い浮かべてみるとよくわかる。仮に登場人物のひとりが、異変に気づき、死体が路上をほっつきまわっているのを見かけたとしよう。彼は、運よく製薬会社に忍び込み、死体が徘徊しているのは特殊なガスを吸ったからだ、と知るかもしれない。だが、もしその映画がジャンルに忠実だとしたら、彼は数分と待たずに食い殺されるか、ゾンビの群れに加わるだろう。それに、彼の知識は問題の解決にはさしあたり何の役にも立たない。ホラーの世界では、知ることは一貫して不遇であり、逃げ遅れることにしかつながらない。したがって、ホラー映画は、始原を忘却しつつ進行するジャンルであり、忘却は、むしろ積極的に肯定されさえする。知識よりは銃を、しかもなるべく大勢にぶっ放せるのをよこせ。何なら爆弾が手っ取り早い。だが、TNTはまだ早い。手榴弾で十分だ。これが、皆殺しの歌に対抗できる、数少ない生の音楽である。
また、ホラー映画においては本質的な出来事が、すべからく背後で起こる。だからこそ、振り向くまでの一瞬の間が、ホラー映画においてほど緊張感を持って作られることはない。そこで肝心なのは、必ず振り向くことだ。背後には、すでになされた決定的な事態(の断片)がある。しかし、振り向かずに知ることは許されない。なぜならば、知識とは振り向かずに知ることだからだ。知識は役に立たない。だとしたら、行動には行動で応答するしかない。すなわち、振り向いて驚くこと、それから逃げることだ。
こうした準則に、『真夜中の羊』はどう応えているだろうか。最初のショットで、ゆったりした土手に背中を向けて立ちつくす男が、やはり、振り返るという動作に及ぶとき、ああ、この映画は律儀にもジャンルの要請を反復している、という安堵の感想にひたりながらも、一抹の不安がよぎらずにはいられない。確かにこの映画は、主人公の男が振り向くショットで始まり、振り返るショットで終わる。だから、ジャンルへの忠実さを十分に意識していることは確かであることは理解できるが、しかしそれは、ホラーというジャンルにふさわしい映画に接したときに人が心地よく揺られるゆりかごではない。なぜなら、真夜中の羊はホラーと呼ばれるジャンルに属し、ホラー映画としては極めて珍しいことに、いみじくもスピノザが言った意味での理解の再帰的認識作用とおなじことを、映画という水準でジャンルそれ自体に適用しようとしているからだ。十年前に失踪したという姉が帰ってきたとき、そのときの状況を再現するように、弟が姉からふと眼を放し、道を歩き、振り返ったらすでに姉はいなくなっていた、と口にするとき、この映画はやはり振り返る映画なのだ、とわれわれは見通しをつけはするのだが、どこか落ち着かない感情が残る。町に異変が起こり始めたころ、空から何かが降ってくるシーンが挿入される。一度目には、魚が何匹か生きたまま落ちてきて、やはり背後で事件を感知したらしい主人公のシンジは、律儀にも振り返り、続いてアスファルトの上で跳ね回る魚が大写しになりもする。だが、彼は空を見上げるわけでなく、すべての出来事の発端となった隕石と魚にどんな因果関係があるかも知らないまま、平然と場面は次に移行する。再び主人公の背後に何かが落下したとき、その二度目には、主人公はもはや振り向きすらしない。この瞬間、何か良からぬことが、決定的なまでにこの映画のなかでは起こっている、と感じられるのだ。彼はジャンルの規則を破っている。この映画では、冒頭から後ろ向きの男が振り返るというホラーの典型的な身振りを反復し、始原の忘却というホラー映画の準則につましくも従う身振りを見せながら、知ることと振り向く行為の仲むつまじい一致は陰を潜め、次第にホラーの規則を忘却し始めるかのようなのだ。
この問題を取り上げるためには、空を見上げるという、この地上を舞台にしたSF映画に典型的な場面を思い起こせばよい。森のなかで姉がおもむろに空を見上げ、街中でも人々は固まって空を見上げさえする。しかし、そうした行動につられて、主人公なり誰かがいっしょに空を見上げることはない。特筆すべきことに、この映画は、隕石の落下を物語の構成の中核においていながら、月のショットをのぞけば空のショットが一度も出てこないのだ。隕石騒動を伝えたニュース映像を見た不動産屋の主人は、落下の瞬間の映像がありそうなものだ、と口に出しはする。しかし、二度にわたる閃光を別にすれば、その映像はついに出てこない。わずかにスモークが弱弱しく焚かれた落下地点で、鉱石を含んだ隕石が映し出されるが、そこでもわれわれが眼にするのは地面であって、空ではない。唯一ラストのシーンで、町を抜け出そうとしてあきらめた主人公のシンジが、行く当てもないまま走り出しはするもののあっけなく水溜りにはまり込み、屈辱とも無謀なる決意とも受け取れる憤怒の息を吐き出す直前、水面には火の玉のように燃え盛る太陽か何かが映し出されはする。しかし、それだとて、空を見上げるという動作を呼び込むことはない。人々は原因を知ることに怠惰になりでもしたのだろうか。原因を知るすべを持ちながらも振り向かず、見上げもしない男たちは、次第に振り向くという物事を知る唯一の身振りを失念するように、確実に変わり行く世界に対して無頓着になっていくかのようだ。だから、われわれは、登場人物のリアクションで支えられていたホラー映画の規則が呼び込む純粋な快楽から、次第に遠ざかっていくことになる。この映画はどこに行くのか。おそらく、ジャンルの庇護から外れた以上、われわれに与えられるのは、「わからない」というつぶやきだろう。実際、上映後の舞台挨拶で撮影時を振り返る主演の役者たちは、一様にその「わからない」を監督の演出意図の不明確さ(へりくだって、韜晦)に帰していたようだ。私は、気詰まりな雰囲気に満たされた映画館で、この『真夜中の羊』にもたらされた「わからない」というつぶやきを、むしろ積極的に擁護したい。だから、強い口調でもう一度繰り返す、「この映画はどこへ行くのか」、と。


ジャンルという例外
 逃げること、ただひたすらに逃げること。このホラー映画の規則を反復しながら、次第にホラーというジャンルからも逃走する。果たして、そんなアクロバットが可能なのだろうか。そのために必要な知性を、ヤング ポールという若い監督がもちえているかどうかは、さしあたりここでは問わないでおこう。また、この映画が抱える技術的な問題(たとえば、移動撮影で車両の音がもろに入る、など)にも、さしあたっては眼をつぶりたい。そこで、ここからようやく物語の要約が始まる。
 物語は、結婚を間近にひかえた恋人同士が、犬を連れて野原で野球をしているシーンから始まる。このシーンの構成は適度に平凡であり、だれもが彼らの破局と惨殺を願わずにはいられない。シンジは犬用のゴムまりを投げ、女が振ったバットが、何度目かにフライを打ち上げる。男は後ずさりし、捕球する瞬間に勢い余ってでんぐり返しする。男は幸福だが、音楽は止み、犬はどこかへ消える。帰宅後も犬は帰ってこず、恋人とは険悪になり、犬の代わりに十年前に失踪していた姉が帰ってくる。姉は、長い長い海外放浪から帰ってきたというが、弟は、前後して起きた隕石の落下と、何らかの関係があるのではないかと疑う。というのも、隕石の落下地点と、姉の失踪した場所は、同じ小高い山の上だからだ。隕石の影響からか、次第に街の様子は変わり始める。しかし、どのように変わったのかは、正確にはわからない。シンジは不動産屋に勤めているが、ある物件だけは売りに出していいのか決めかねている。その物件とは、幼いころ家族がともに住んだ一軒家で、思い出もあり、今ではばらばらに暮らす家族を、いつかは結びつけてくれるのではないか、と考えているのだ。結局、シンジはその家を手放すことを決め、見学に来た夫婦を案内する。シンジは二階に行き、窓を開ける。ふと何かの気配に気づいて振り返ると、そこには失踪した姉がいる。帰ってきた姉は、住まいも定めずに、その家に寝袋を敷いて暮らしていたのだ。突然の姉の登場に、シンジは物件を売るのをしぶり、すでに仮契約を取り決めた書類を盗み出そうとする。不動産屋の主はそれを見咎め、自分があれほど手を尽くしてきたのに裏切られたと憤慨する。問い詰める主をかいくぐり、シンジは不動産屋を飛び出し、恋人と姉の三人で過ごし始める。隕石が落下し、姉が帰ってきてから、街では隕石の話題が持ち上がり、全力疾走で獲物を狙う若い男たちの集団が徘徊する。その隕石の影響をはっきりと語っているのは、終盤に姉が月に向かってベランダで語る、それは前とほとんど何も変わらない、からだの細胞が入れ替わるように、少しずつ変わる、という独白である。実際、われわれはこの言葉をどこまで信用してよいのかわからない。隕石が落ちた初期の段階で、街には思考停止に陥ったかにみえる人間たちの、小さな集団が出没する。彼らはシンジの姉を神かと信仰し、列をなして後に従いながら、まだ感染なり、事後の影響の出ていない人々を、全速力で追いかけ回さずにはいられない。と同時に、このシンジという弟が占めている曖昧なポジション――神の父でも、女王の連れそう愛しい男でも、神の産み落とした神聖な子どもでもなく、ただの弟というまことに中途半端なポジションに、何やら嫉妬とも保護者精神ともつかぬ複雑な感情を示しもする、いたって人間的な烏合の衆なのだ。彼らは、執拗に新しく生まれ変わる世界を気に入っていない弟をたしなめ、必要とあらば全速力で追いかけることも辞さない。しかし、彼らが追いかけるのは何をするためなのか。また、シンジが追いかけられる、その本当の理由とは何か。こうした謎は不問に付されたままに、まるで彼らはそのルールを知らないままに鬼ごっこに興じる奇妙な連携を獲得する。『真夜中の羊』がホラーというジャンルのはるか後裔に位置しているという確証は、彼らは追いかけっこをするという規則は知っているが、その物語や背景はもはや機能せず、従って規則そのものは次第に忘れ去られ、ただ追いかけるという身振りだけが残された結果、他になすすべもなくその行為にすがっている、という点においてのみ見出すことができる。物語がこなれていない、という単純な指摘を覆すことができるほど、監督が自分の取り組みに自覚的でないのは致命的だが、しかし、隕石の落下後、何が起こったのかを考察する手がかりは、何も人間にだけ与えられているのではない。人間の肉体を他の生命体に塗り替えるマキアージュの技法や古式ゆかしい張りぼて、代用物でしかないCGといったホラー映画の擬態的側面がそれなのだが、後にとり上げるように、この若い監督が自らが作るホラー映画に必須の構成要素として採用したのは、何の変哲もない一枚の白いコーヒーカップだ。だが、少なくともここまでの議論でいえることは、隕石の落下が直接的な人々の変化の原因なのか、隕石の落下とともに街に帰ってきた女の鼻歌が原因なのか、ただその女の存在自体が催眠作用をもたらすのかは、なおさら分かりはしないということだ。
この映画は、それらしい原因とその効果らしい事象をいくつも挙げながら、唯一の原因がない。ひとつひとつの事象に関連がなく、それらが一同に際しているのはひとえに同じひとつのジャンルの典型的な出来事だからに過ぎない。考え抜かれていないアイディアを続けざまに見せられる不快感に似た印象は、否定すべくもなく、観るものに付きまとい続ける。しかし、観られる映像は、そこに映し出されたもの、監督が理解したであろうものに過ぎない、というわけではない。ヤング ポールはそこまでしか進まないのではなく、まさに映し出されているものを理解できなくするかのように、映像を編集していくのだ。それは、シンジという主人公が、一方でホラー映画のジャンルが無常にも跋扈する世界に落ち込み、また一方では探偵映画に見られるように事件の解決を嘱望されもしながら、そのどちらでもない道を、綱渡りのように危うい、そのくせ無頓着な歩みと疾走によって駆け抜けていこうとする姿勢にも見出すことができるだろう。彼は、自分がしようとしていることに、道しるべをつけない。パンくずは夜中の森のなかで、カラスについばまれてしまう。男は学習しない、だから、闇夜でも目につくすべすべした白い石をかわりに置いていきはしない。主人公が、その背後でばかり起こり続ける事件に不可解さしか感じられず、次第に無感覚になっていくように、監督もまた、ジャンルという掟が執拗に送り続ける逮捕状を片手に、なすすべもなく背を向けて、彷徨しているかのようなのである。仮にこの映画がホラーというジャンルの外へと向かって、いまだ到達できぬその一点をさしてひたすら脚力を試しているとしたらどうだろうか。その地点には、ついに足を踏み入れることができないだろう。タクシーに乗り、街の外へ、と言ってシンジが向かう先は、袋を頭からかぶせられたライトバンの中なのだから。
街には確かに異変の兆候がうごめき、暴力のありふれた身振りが繰り返されもする。だが、結局のところ、街に起こったといわれる変化は、実際のところ、変化が起こらないという変化なのかもしれない、と勘ぐってしまいたくなるのだ。私はこのあともまだ、ヤング ポールという監督が作り出した混乱に乗じる覚悟がある。というのも、現代においても映画を作ることをいまだ望みうる人間にとって、彼がその表層をなぞり、ジャンルの既視感のスクラップで作り上げた奇怪なオブジェは、おそらくは自主制作に臨むものが避けて通ることのできない混乱がもたらした必然の産物だからだ。
 三人の奇妙な同棲生活がはじまったすぐあと、朝のまだはやきにコーヒーを飲む女たちのシーンがある。シンジは眠りに伏せ、女たちは意味深な目線を交し合う。コーヒーを渡された姉は、白いクロスがかけられたテーブルの上で、指を一本ぴんと伸ばす。コーヒーソーサーのふちに指はあたり、そのままクロスの上を滑り落ちる。傾くカップが映し出されるが、音はしない。シンジの恋人は、その仕草を見つめ、シンジの姉は見返す。シンジが寝返りを打ち、眼を覚ましてテーブルに合流すると、ふたりは何事もなかったかのようにコーヒーを飲み交わし、割れたはずのコーヒーカップについては触れられない。いったいここでは何が起こっているのか。その後、シンジの姉が再び姿を消すと、いささかオーバーな演技で、姉弟なのだからお姉さんを探してきなさいと言いつける恋人も、激情を押し込めるように姉とまったく同じ動作を行う。カップはぶちまけられ、真上にすえられたカメラは出来事を記録する。したがって、しっかりとカップは割れる。いったいここではなにが語られているのか。兄弟関係は修復できるが、恋人関係は一度亀裂が入ったら修復できない、という比喩でもあるのだろうか。だが、もう少し現実的な解釈をしよう。最初のシーンの意味は何か、というと、さしあたりは、シンジの姉は変化をなかったことにできる、そんな能力を持っている、としかいいようがない。(この仮説から導かれるべき結論は、シンジとその姉が望む未来は、まったく似ても似つかないが、そう違うものでもないということだ。シンジはかつては幸福だった家族をひとつにしようとしている。幸福の世界はノスタルジーにあり、思い出はあらかじめ失われているのだから、安全だ。もはや失われる気遣いはないのだから。だからこそ、傷跡をそっとなぞるようにかつての幸せを再現しようとするシンジの願望は、姉が語る変化に限りなく近づくことになる。家はそこにあるのだから、家族がそろえばもとのように幸せに暮らすことができる。まるで何事もなかったように。)割れたと思ったカップは割れてはいない。これと似た現象は次の場面でも確認できる。シンジが空き家を売り渋ることに業を煮やした不動産屋は、空き家に入っていくシンジを追いかけてくるが、すでに家のなかにいたシンジの姉の信奉者に首根っこをつかまれ、頭をスコップでかち割られ、玄関のドアは閉まり、シンジだけが家のなかに取り残される。シンジはドアを開け、外に出るが、不動産屋の主人と思しき死体はない。その後、不動産屋の主人は、何事もなかったかのように事務所のソファにすわり、手塩にかけて育てたシンジが裏切ったことに対して復讐の依頼を申し込むのだが、その暴力があまりにひどくなると、いや、そこまでしてほしいと頼んだわけではない、とおろおろしながら依頼主に懇願したりもするのだ。世界は何事もなかったかのように異常さを増していき、したがって展開としては、平板で大げさな身振りがやたらと頻繁に繰り返されることになる。
いったい世界はどうなっているのか。死んだものが生き返るのでもなく、魅入られたものが理性をなくすわけでもない。だが、人々は追いかけっこを止めない。果たしてこの状況が、雑貨屋の店主が語る、世界の破滅の一端なのだろうか。この映画に確実に存在する乗り切れなさは、シンジの姉に付き従う従順な羊の群れたちのように、どこか洗脳とはいえないままに列をなして後についていかざるを得ない烏合の衆の抱える乗り切れなさに由来するのではなく、破滅を予告する雑貨屋の店主や姉弟愛をかたくなに信じるシンジの恋人のように、過剰な演技でジャンルの世界観にいまだ浸っていられると信じている、時代錯誤な連中によってのみ、もっぱらに引き起こされるだろう。というのも、『真夜中の羊』は、もはやジャンルの準則にのっとった幸福な映画は撮り得ないと考えたひとりの監督が、それでも残された遺産を食い潰しながら、いったいジャンルが破綻した後には何が残されているのだろうか、とふと自問してみざるをえないような類の映画なのだ。したがって、世界の破滅とは、文字通り世界が消滅することを意味するのではない。シンジの姉が言うように、世界はすぐには変わらない。それは細胞が入れ替わるように、少しずつ変わる。一方には、シンジの姉が現れてからの新しい世界=ジャンルがある。これはホラーと呼ばれている。ほとんどのものが、この規則になすすべもなく従っている。もう一方には、シンジがかたくなに拒むジャンルの掟からの逃走がある。この闘争は、決してメタレベルでは行われない。繰り返しになるが、ここで戦われているのは知識ではないからだ。ジャンルのなかに留まりながら、シンジはひたすら追跡する男たちから逃げ続け、別の暴力を誘発するが、そこからもまた逃げようとする。そして、ことの発端となったらしい隕石を見つけ、赤いマフラーが絡みつくハンマーで破壊しようともする。石はじょじょに壊れていくが、世界はもはや変わらない。それだとて、ジャンルの規則に従った行動としか受け取られないからだ。だから、シンジはこの世界=ジャンルに踏みとどまることを諦め、街の外に脱出しようとするのだ。
ジャンルの規則から逃げ延びることはできるか。おそらく、監督が踏み出したであろうその問いに続く最初の一歩は、シンジと同級生だという、姉の影響を免れているらしいひとりの男によって体現される。彼は、街で自在に暴力を行使する豹柄のロングコートをはおった男に付き従がっているのだが、どうやら他に行くあてもなく、過去の弱みを握られていることだけが示される。男は不動産屋の店主が依頼した暴力の一端を担うことになるが、そのやり取りの隙に逃げ出したシンジを、森のなかで抱き起こし、助けることを決断する。彼は街に起こった不可解な変化を知っており、みながシンジの姉に従っているようだが、自分はもう少し、お前についていく、という。われわれは、ここではたと、ではシンジという男は何かの救世主だったのか、と勘ぐってはみるのだが、当のシンジはあっけらかんと、俺は町を出る、と言い放つ。そこで、着いて行くといってしまった男は、俺は街に残る、と宣言し、シンジとは反対の方向を歩き出す。シンジはその後、冒頭でいなくなった飼い犬を発見する。しかし、茂みの中でダックスフンドは牙を立てて生のロース肉を食らい、おまけにライオンのうなり声がインサートされているものだから、シンジは、ああ、犬までもがホラー映画の規則に従順にも従っている、と知るはめになる。そして彼は闇雲に走り出し、先に言った水溜りにダイブすることになるのだ。シンジと別れた男はやがて、豹柄のコートの男たちに出くわすだろう。なすすべもなく街に戻ってきた同級生は、後ろをくるりと振り返り、茂みの中に真っ白いウサギが数匹いるのを発見する。『狩人の夜』(1955)の脱出を反転させたような場面で、男はいったい、何をウサギの群れに読み取ったのか。ジャンルの規則からひたすらに逃亡しようとしたシンジにおけるほど、この問いは単純ではない。男は、大きな口を開いて笑う。高らかに笑い出すのだ。にっちもさっちも行かない状況に陥って、人が笑うことはある。北野武のヤクザが、自ら銃口をこめかみに突きつけたときに見せる不敵にして愛嬌のある笑い、もしくは、キングコングが、人間の砂粒ほどの銃弾をしこたまどてっ腹に食らい、死に体になりながらも自分を愛してくれたかもしれない人間の女に投げかける笑い、こうした不滅の映画史のなかに刻まれた笑いのバリエーションと比べるには見劣りがするが、シンジにおけるジャンルの規則のように、過去のしがらみや弱みから逃げようとしていた男が、ついにその足を止め、きびすを返して事態に直面したときに見せる高らかな笑いは、それまでにみられなかったものではある。この映画がラスト近くで、反射神経のようにその体内に刻まれた掟に逆らい、ついには受け入れた人間の誇り高い破滅の笑いを、私はただ祝福したい。
同級生は、ホラーの原則が支配する街に戻り、追っ手に行く手をふさがれ、笑い出す。では、シンジはどうか。街を出ると言っていたシンジが再び走り出したとき、その行方はどこともしれない。街の外に向かっているのかもしれないし、そうではないかもしれない。だが、シンジはおそらく戻ってきたのだ。そして、あっけなく足元をすくわれる。水溜りにはまり込み、泥水が顔から滴り落ち、むせびながらも立ち上がり、冒頭における素振りを悲壮な表情で反復する主人公が、ここでは不屈なまでに決意を秘め、何事が起こっても自分は逃げ出さない、と確かな決意を見せるとき、彼はカメラに向かってその表情を見せつけるように振り返る。しかし、彼はもうホラーという規則が促す決められた動作にしたがって、振り向いたのではない。では、シンジは変わり行く世界の変わらなさにぶち当たり、いったい何を見たのか。映画はここでエンドロールを流すのみだ。





* この映画の舞台挨拶で、シンジの姉役の宮本りえが、「世界を変える赤ちゃんをみごもっていて」とふと口にもらし、その表現として、手をひらひらと舞いながら踊る仕草がシナリオにはあった(「くるくる回る。踊り。」)、と証言している。だとすれば、この映画には、ある種の近親相姦的な設定すらも存在したことになる。それを示すのは、空き家で姉と弟が肩を寄せ合って座っている場面しかない。弟は眠り込み、眼を覚ますと、姉が座っていたはずの場所には隕石が、床には血糊が付着してある。この場面と、喜びをあらわす踊りで、しかるべく懐妊が示されている、とヤング ポールが仮定したとすれば、彼はさらなるクリシェを持ち込むことで映画を混乱させようと目論んだことになる。だが、その試みは、さしあたり誰にも理解できないだろう。この映画のなかには家族からの手紙が届くシーンがあるのだが、その文字は手紙を持つシンジの背後に控えたカメラからは読み取れず、シンジ役の岡部尚は、わざと見せないように(したがって韜晦に)したのか、と監督に問いかけたところ、見せるつもりはあったが、映っていなかった、と曖昧な返答をもらした。ああ、彼がもっと自分のやろうとしていることに意識的であったら! という思いと、このはぐらかしはもはや天性のもので、余人には手をつけられない類のものなのかもしれない、という思いが奇妙に交錯する、そんな舞台挨拶であった。実際、隕石による世界の変化と、失われた家族の幸福な時代の凍結、というもっと分かりやすい、ミニマルに描かれた地球征服の主題を十分に展開することができたら、この映画は賞賛を浴びたかもしれない。だが、映画の出来として、そのほうが上であるとは必ずしもいえないのだ。というのも、ヤング ポールがあからさまに常套的なSFジュブナイルの展開になど魅力を感じるとはとても思えないし、われわれはともかくも、追いかけっこを観るのが好きで、主題は二の次なのだから。