(その十五) ヨアンネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テオフィールス・モーツァルト

 ある日のこと、彼は深い夢想に耽っていたが、ふと一台の馬車が門口にとまるのを耳にした。見知らぬ人が彼に面会を求めているむね取りつがれ、彼はその人を案内させる。見ればかなり年配の立派な身装の男で、物腰には非常に品があり、しかもなにか威厳のある調子さえ含んでいる。
「先生、私は、さる高貴なかたから依頼を受けて参上いたしました。」
「誰です、そのかたは?」
モーツァルトは話をさえぎった。
「知られることをお望みではないのです。」
「よろしい。で、なにをご希望です?」
「」そのかたは、最近、最愛のかたを亡くされたのです。故人の思い出は、いつまでもそのかたにとって大切なものとなるでございましょう。そのかたは、毎年盛大な儀式を催して、その死を悼もうと念じておられます。そして、その儀式のための『レクイエム』を、あなたに作曲していただきたいとおっしゃるのです。」
 モーツァルトは、その話や、重々しい語調や、その出来事全体を包んでいるかに見える謎のような雰囲気に自分がいたく打たれているのを感じた。彼は『レクイエム』の作曲を約束した。未知の客は続ける。
「その作品には、あなたの全精神を打ち込んでいただきたいのです。あなたは本当に音楽のわかるかたのために仕事をなさるわけですから。」
「結構なお話です。」
「どれくらいの日数を要しましょうか?」
「四週間。」
「それでは、四週間しましたら、もう一度参上いたします。作曲料として、いかほどお礼申し上げたらよろしゅうございますか?」
「百ドゥカーテン。」
 未知の男はそのお金を卓の上に置いて消えた。
 モーツァルトは、しばらく深い物思いに沈み込んだままである。やがて突然、ペンとインクと紙を求め、妻の忠告も聞き流して彼は書き始める。このものに憑かれたような仕事ぶりは、何日も続いた。彼は、夜を日に継いで作曲した。しかも、進むにつれて次第に熱が加わってゆくようであった。しかし、すでに衰弱した彼の肉体は、この熱中に耐えることができなかった。ある日、彼はついに意識を失って倒れてしまい、仕事を中断しなければならなかった。二、三日の後、妻は、彼が取り憑かれている忌わしい考えから彼の気をそらそうと努めたが、彼はいきなりこう答えた。
「これはたしかだ。ぼくは、ほかでもない、ぼくのためにこの『レクイエム』を作ってるんだ。これはぼくの葬式に役立つだろう。」
 なにものもこの考えを翻させることはできなかった。
 彼は作曲を進めるにつれて、体力の日増しに衰えていくのを感じていた。そして、総譜の進みかたは次第に遅くなっていった。彼が要求した四週間は過ぎ去り、ある日、例の名を明かさぬ男がやって来た。モーツァルトは言った。
「お約束が守れませんでした。」
「お気になさいますな。もうどのくらいかかりましょうか?」その男は尋ねた。
「四週間です。この作品には、最初思っていたよりもずっと意欲が湧いてきたのです。そこで、意図していたよりもはるかに長くなってしまったのです。」
「では、お礼のほうも増させていただかなくてはなりません。ここに、もう五十ドゥカーテンございます。」
 モーツァルトはいよいよ驚きながら言った。
「で、いったいあなたはどなたなのですか?」
「さようなことは今度のことと関係ないことでございます。四週間したらまた参りましょう。」
 モーツァルトは、早速召使の一人を呼んで、この異様な人物の跡をつけさせて、何者かを知ろうとした。しかし、不手際な召使は帰って来て、その行方を見失ったと報告した。
 モーツァルトは、この名も知れぬ男はただ者ではなく、たしかにあの世とかかわりのある人物であって、彼の死が近いことを知らせにこの世に遣わされて来たのだと固く信じた。それゆえに、彼は自己の天才の最も永続的な記念碑とするつもりであったこの『レクイエム』に、ますます熱をこめて専心するばかりであった。この創作中、彼はしばしば憂慮すべき失神状態に陥った。ついに作品は約束の四週間よりも前に完成された。未知の男は、約束の日にやって来た。モーツァルトはすでに亡かった。
 彼の生涯は、輝かしくもまた短いものであった。彼は三十六歳になるかならずでこの世を去った。しかし、この短い歳月の間に、彼は、感じやすい人びとがこの世にあるかぎり決して消えることのない名声をかち得たのであった。
    スタンダールモーツァルト』高橋英郎・冨永明夫訳 東京創元社109〜112頁