(その三十一) J

 私の知り合いで「借金の天才」「借金踏み倒し王」と呼ばれているJという男がいる。「金を借りるということは、もらったということだ」と常日頃から公言している奴で、現にこれまで三十億円ほど借金しているが、一銭たりとも返したことがない。それでいて、貸し手から告発されたり、暴行を受けたりしたことが一度もないという剛の者である。ひと言つけ加えておけば、Jはヤクザではない。悪党ではあるが、すっ堅気である。
 借り手はヤクザから一般の経営者、資産家にいたるまで多岐にわたっているのだが、相手によっては踏み倒し方を臨機応変に変えるのがJのエグいところである。ある広域ヤクザ組織系列の有名な金融屋の借金をチャラにした時などは、まず返済が遅れることを詫びに相手の事務所に乗り込む。そして、玄関に入った途端にガバと平蜘蛛のようにひれ伏して、「会長! 助けてください!」と絶叫する。
 会長が出てきて、「いったい何事や?」と尋ねても、同じ姿勢で同じ絶叫を繰り返し、「お借りした金が返せんのです!」というのがJの持論である。Jの場合は計算ずくの誠意なのだが、それでも人間はおかしなもので、逃げずに懐に飛び込んできて誠意を示されれば、つい甘くなってしまう。ヤクザとて同じなのだ。そのうち会長のほうが勝手にいろいろ対策を考えてくれ、「お前とこの手形を持ってこい」というような話になる。
 もちろん、手形は持参する。それも指定日の必ず三日前には持って行く。だが、金を返すつもりなどまるでないのだから、期日に落とされる手形は絶対持参しない。自分の会社の手形に自分で裏書きした書替手形を持って行き、またしても平蜘蛛状態で絶叫する。相手にすれば、不渡りを出すよりは書き替えたものを受け取ったほうがいいに決まっているから、その場もなんとなく収まる。Jは絶叫と事前訪問を何年も繰り返し、結局借金をチャラにしてしまった。
 しかし、相手が堅気でチョロい奴だと踏むと、Jの対応は俄然一変する。相手が借用書や手形を突きつけて返済を迫るのを神妙な顔つきで聞いていたかと思うと、突然、借用書や手形を鷲摑みにしてクチャクチャに丸め、いきなり口のなかに放り込み、あろうことか呑み下してしまうのだ。
 相手は茫然自失、しばし腰が抜けたようになるそうだが、当然、我に返って怒り狂う。なかには殴りかかる者もいる。だが、Jは二段、三段構えでその対策もちゃんと講じている。手形など、ハナからなかったと一貫して強弁するのだ。殴られた場合は「警察沙汰にしてもいいのか」と脅迫し、逆に慰謝料を取ったりするのである。
 現在、Jは数億の豪邸に悠然と住んでいるが、土地は借地、建物は母親の名義にしてあるから、債権者が以下に切歯扼腕しようとも手の出しようがない。こんな男が、命を捨てることも訴えられることもないのだから、現実は「借りた金は返すのが当たり前」でとおるような単純な世界ではないのだ。
    宮崎学 青木雄二『土壇場の経済学』幻冬舎アウトロー文庫) 二000年四月二十五日発行 76〜78頁