サルビアの向こう側で マノエル・ド・オリヴェイラ『過去と現在、昔の恋、今の恋』(1972)

 もはやあまりに定番すぎて、それが何を表す曲かはだれもがみな当然のように知っているとうなずきあいながら、いざ曲名を問われると不審なことに肝心の題名が出てこず、あれよあれあなた知ってるでしょと耳打ちしあい、ときには擬音でパパパパーンと恥ずかしげもなく出だしを口ずさんで、その繰返しよそらわかるでしょあれよあれと念を押しながら、さも示し合わせたかのようにその作曲家についても曲名についても黙殺しあうコマーシャルソングというものがある。たとえ日本国家をテーマにした映画であれ、大島渚の『少年』(1969)の雪だるまにみかんをはめ込んだ日の丸のメタファーに思わず鼻白む人が確実に存在するように、結婚が生む幸福と不幸、嘘と真実を律儀な態度で検証したマノエル・ド・オリヴェイラの傑作『過去と現在、昔の恋、今の恋』(1972)に、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」がばかばかしくも鳴りわたるのを聴いて、こみ上げてくる失笑を抑えるのはむつかしいだろう。概してヨーロッパの古きよき映画には、ルキノ・ヴィスコンティからクロード・シャブロル、ライナー・ベルナー・ファスビンダーからダニエル・シュミットに至るまで、これをまじめと受け取っていいのか、それともむしろ「えげつない」というどんぴしゃな日本語に見受けられるように、頽廃にまでは到ることのない悪趣味というものを積極的に認め、その上で、はたして笑っていいものかどうか思わず戸惑わざるをえない作品群というものが確実に存在する。まったく別の文脈で黒沢清が厳かにもジャン=リュック・ゴダールの映画を観て笑ってもいいのだ、映画館の暗闇においてはてらわずに笑ってもいいのだと宣言して以来、『勝手にしやがれ』の衝撃以降日本でそれをおおっぴらに口に出していいものかと逡巡していた託宣がついに解禁されたのだが、その基準についてはいまだ曖昧なままである。バスター・キートンマルクス兄弟を驚きの声を上げて笑うことなしに観続けるのが困難だと思っている観客が、なぜゴダールエマニュエル・レヴィナスやセルゲイ・エイゼンシュタインを引用し、ときには女優の名前を間違えて引用したために訂正まで入れてしまう律儀さを、しかつめらしく退屈を押し殺した表情で観続けなければいけないのか? 問いはいまだ答えられていない。ここでは、その笑いが発生する磁場を確定する基準、すなわち映画における物語と寓話の違いとはどこにあるのかを見極めたいと思う。
 かつて物語と寓話に関する基準は、実作者の何気ないひと言によってのみその境目を知ることができた。ガブリエル=ガルシア・マルケスは、物語を原稿用紙一枚で要約できるものと定義し、もし説明するのにそれ以上の文字が必要だとしたら、それは物語に必要なものが足りないか、かえって余計なものが添削されないまま残っている結果だと断定した。この物語の輪郭を完全に知り尽くしたノーベル賞作家は、決してその途方もない自著を物語の定義におさまりうるものとしては描かなかったのだが、続けて寓話の定義を次のように下した。いわく、主人公の行動がすなわちひとつの世界の提示であるような出来事の連鎖、と。ある日背中に翼の生えた老人が海から漂着したからといって寓話が始まるわけでもないし、熱砂の吹く砂漠のテントで延々と性を売り続けなければいけない幼い娼婦が主人公だからといって、それが寓話と呼ばれるわけではない。それらは寓話の条件であるにすぎないのだ。テレビの三十分番組の作成にあたって、死を宣告された男がそれまでの人生を捨てて旅にたつ話をシナリオライターたちと協議しているとき、マルケスが細部のつじつまあわせを問題にしなかった瞬間に(男の死の原因になる病気は何にしましょう。とにかく男が死ぬってわかればそれでいいんだ。あとはその場所をどこにするかだ)、その話が初めて物語ではなく寓話として意識されたように、寓話では、原因と結果が転倒している。すなわち、こうであるから、こうなった、ではなく、こうなったから、こうである、の世界。このサルトルが簡略に定式化したような極めて実存主義的な認識が寓話の基本なのだ。サルトルの記述では個人の意志というものが、個人の運命というものと切り離されては考えられないように、この運命はやすやすと寓話と呼びかえられ、意志は扉を開ける行為に様変わりするのだ。
この説明と、ゴダールがかつて物語と主題に関して引いた区別と比べてみよう。ゴダールは、物語を一枚の原稿用紙に収まるものとは考えず、むしろ説明するのに二十分もかかるものと言いもしたのだが、そのことを、筋らしい筋がまるで感じられないというまことしやかな評判がすっかり定着したかにみえる彼のフィルムが与えるある種の実感に帰してはいけない。同じように、もし自作の予告編を製作するとしたら、本編の数倍の長さになるだろう、なぜなら、いろいろな角度から作品の分析をしたいからだ、とあるインタビューでゴダールが述べていたとしても、そのことから早合点して、映画よりもコメントのほうが面白い作家だと間違ったレッテルを貼るのもまたつつしまなければいけない。ゴダールは、主題を二十秒もかからずに要約できるもの、と説明した。嫉妬や復讐、和解や逃亡といった、かつて神話や民話を研究する学者が試みに分類した物語の原型となる要素に還元できるのが主題というわけである。ゴダールにとって、なぜ物語が説明するのに二十分もかかり、実際にはそれ以上かかってしまい、ついにはいつまでたっても説明しきれるものではないと発覚するに到るのかといえば、それは決してゴダールよりマルケスのほうが物語というものを知っているといった巧拙の問題を意味しないだろう。マルケスの定義する物語には、意識的に語りという機能が捨象されているように――同時に、脚本の場合は演出が欠いているように、『百年の孤独』や『族長の秋』を手に取ったことのあるひとなら、あるひとつの出来事がいくえにも視点を変え、材料をたがえて語られうることを知っている。ゴダールの定義において、主題のわかりやすさに比べて物語の説明が不透明なのは、物語というものに、おのずからある出来事が生きられた時間やそれを語る方法、また、ジャック・ロジエを論じたある記事のなかでもっとも美しい言葉と定義された、演出という概念までもが含まれているからに他ならない。本編の予告編の構想で語られているのは、物語の要素を分析するさらなる視点であり、長い映画監督の人生における自分の最高傑作は、作らなかった映画だと言いもし、その処女長編であるギャング物を『暗黒街の弾痕』(1937)のとなりに位置づけるべき作品としてとりあげたつもりだったが、できあがったものを観てみたらまったく違うものになっていたと臆面もなく語るこの稀有な映画作家にとって、物語は映画がエンドテロップを流してもなお終えることがないだろう。
さて、ここから論じたいのは、ゴダールが定義する物語と、マルケスが定義する寓話についてである。
物語と寓話というこの差がなぜ生れるかといえば、物語では、行動と語りのあいだに人物の相違や、時間の経過、場所の移動がはらまれており、事実と真実、確証と真実の間の不一致が何らかの形で主題とならざるをいないのに対して、寓話においてはスタイルが、つまり、「意識が自らに与える現実」が重視されるからだ。その違いを簡単に言い表すとしたら、もっともらしさを何が生むかの違いということになる。
オリヴェイラが『春の劇』(1963)で垣間見せてくれたのは、古典的な劇というスタイルと、映画という表象のはざまで、何が真実の媒介になるのかという極めて高度な問題だった。クラリャ地方で上演されるという、素朴なキリストの受難劇のドキュメントであるこの映画で民衆が演じるのは、村全体を舞台にした劇である。鏡に向かって髪をとかすルノワール風のふくよかな女性が、言い寄ってくる男を振り切り、玄関先に置かれたつぼを手に取る。鍬を振るう男たちがいる坂道で頭にひょいと乗せ歩き出すショットの美しさには思わずはっとさせられるのだが、女が村はずれの井戸で水を汲んでいるとき、自分の過去をずばりと当てる男が不意に現れ、つぼもそのままにメシアが現れたと叫びだす女の姿を観るに到って、この劇中劇がいったいいつはじまったのかと思わず考え込まざるを得ないのだが、決して思考はそのような知的な関心に留まってはいてくれない。われわれはその後、延々と素人劇を観せ続けられるわけであり、おごそかなせりふは両手をふりふりしゃべるといった工夫しか感じられない演じ手のあまりの稚拙さに、思わず辟易とさせられるのだが、不思議なことに、観続けているうちに演技の素人くささはまったく気にならなくなってくる。それどころか、役を演じきるという演じ手の巧みさが証明するのが物事の真実というよりは職業上の誠実さでしかないように、この一貫して棒読みの受難劇があらわしているのは、まさに真実いがいの何ものでもないのだ。はたしてキリストは、よくキリスト自身を演じたであろうか? こうした問いがときに頭上を旋回するほど、『春の劇』は真実に対する考察を刺激してくれるのだが、その十年後の映画『過去と現在、昔の恋、今の恋』では、ドキュメンタリーから寓話にその舞台を移している。この映画を、マルケスにならって原稿用紙一枚で要約すると、次のようになる。
ヴァンダは夫のリカルドを交通事故で亡くし、フェルミーノと再婚する。フェルミーノは、嫉妬こそが愛の基本的要素だと信じ、妻に前夫を愛するようしむける。しかし、結果として死体しか愛せなくなった妻に嫉妬したフェルミーノは、その情の理不尽さに耐えられずに投身自殺する。その後ヴァンダは以前から不倫の仲だった前夫の双子の弟ダニエルと再婚するが、実は交通事故で死んだのは弟のダニエルで、ダニエルだと思っていた男こそがリカルドだという事実が判明する。元の鞘に戻ったヴァンダは、フェルミーノの肖像画を部屋にかけ、再び死んだ者を愛し始める。死んだ夫しか愛せないヴァンダと、事実上生き返ったリカルドは、友人の結婚式の日に派手な喧嘩をやらかし、それでも教会にかけつけるのだったが、満席の場内に座る場所もなく、ふたりは右往左往する。
 このミュッセ風の恋の鞘当を描いた軽薄な劇において、ヴァンダがなぜ死んだ夫しか愛せないのか、会話のうえでは理由を説明していないからといって、そうであるからという単純な理由で寓話に分類していいとは限らない。ヴァンダが死んだ夫しか愛せない理由はせりふとは別のやり方でじゅうぶんなほど説明されており、それでこそわれわれはサルビアに象徴されるような赤い花に眼を奪われることもできるのだ。赤といえば、ダグラス・サークの『天はすべて許し給う』(1955)の赤いポストから黒澤明の『天国と地獄』(1965)の容疑者の位置を知らせる特殊な赤い煙、高橋伴明の『TATOO〈刺青〉あり』(1982)の土砂降りの雨のなかで打ち捨てられた赤い傘に到るまで、赤が説話上の重要なモティーフとして存在する映画は数多く存在する。オリヴェイラの長編三作目にあたるこの映画では、赤は死者に手向けられる公然の暗号であり、冒頭でヴァンダがお抱えの運転手に買いに行かせる花束が赤であれば、フェルミーノが二階から落下するのも赤いサルビアの花壇であり、死んだフェルミーノの肖像画が飾られた部屋の机に置かれた蝋燭もまた赤であり、その反対側に無造作に置かれた油絵はもちろん赤いバラの静物画なのだ。一貫した色彩上の配慮こそが結婚に関する寓話劇を成り立たせているのだが、死んだ者しか愛せないヴァンダの因果な性格を、観客はだからといって納得できるわけではない。もし、ああまた赤い花だ、そら、ヴァンダはもとの夫を愛し始めるぞ、とその展開は予想できたとしても、である。お約束ということばでわれわれが理解しているのはこのパターンであり、心情としては登場人物を理解できないとしても笑うことはできる。そして、日常的に死は(すくなくとも、他者の死を送る儀式は)厳粛なものだと理解している人間にとって、この映画ほど死をばかばかしく描いた作品は存在しないであろう。不敬という日本の土壌では極めて限定された場面でしか口にされない言葉を避けるとしたら、不謹慎さとでもいったものを笑いに変える演出が随所にちりばめられていて、観客は失笑と唖然のあいだを行き交いながら、次第に昂然として喉もとをくすぐらせる笑いが大きくなっていくのに気づかざるを得ないはずだ。たとえ部屋の向こう側にある鏡を意識した頻繁な移動撮影がわずらわしく感じられても、心配することはない。冒頭の、妻の不倫の手紙が女中から運転手に手渡されるのを、夫がズボンもはかずにシャツ一枚で毛脛をむき出しに眺めている窓際のカットから、こうした演出ではヴィターリー・カネフスキーの『動くな、死ね、蘇れ!』のあるカットでもっと破壊的な場面を観たことがある観客であっても、この映画には大いに期待していいと思っていいのだし、皆が喪服を着て客間に集まったのは、一年越しにもとの夫の亡骸を自分の墓に移すためだと女主人が口にするでもなく友がささやきあい、そこに今の夫であるフェルミーノがやはり喪服で現れたのをヴァンダが一喝し、あなたに喪服を着る資格はないなどといわれてあろうことかすごすごと着替える一連の場面において、フェルミーノを演じる俳優の驚くほど寡黙な、それでいて一物腹に含んでいそうな無表情を、せり出したあごと薄い唇、眼もとまで侵食してきた卵形のつややかなおでこという、レーニンにもタランティーノにも見受けられるあの奇妙な骨格的特徴に押し秘めた哀れさに凝縮した感動的なバストショットに出会うに到って、この映画には過大な期待をかけてもかまわないのだと確信していい。だから、その後も極めて律儀に不真面目な熱心さとでもいうべき情熱を傾けて演技を続ける俳優たちのなかでも、窓際のソファで主人公とは別のカップルが、お互いの鼻と鼻、あごとあごに口づけ交わす美しいショットを観るに及んでは、後年の『神曲』(1991)の幸福が次々と伝染していくようなあの信じがたいキスシーンを思い浮かべて、大いに笑いのつぶてをぶつけるべきなのだ。したがって、この映画を、ほら話を生真面目な文体で記すというアメリカの「ユーモア・スケッチ」の精神を汲む作品と位置づけることもできるだろうが、ここで指摘しておきたいのは、寓話におけるリアリティーは、いかにして現実の価値原則を揺さぶれるのか、という点にあるということだ。自殺したフェルミーノは即死できず、死の境をさまようのだが、そのあいだ友人たちは何をしているかといえば、もう死んだ? まだよ、などと声をかけあい、生きて矍鑠としていた頃には批判をおおっぴらに向けていたが、死ぬとわかったとたん聖人のようにほめ称えて、急に眼の色を変えた自分たちをこっけいだとも思わずに冷静に分析している始末だ。妻に到っては、女中に言いつけて新品の棺おけを買っている始末で、室内に持ち込まれた棺おけはまだ居場所があろうはずもなく、運んできた男たちはどちらを前にするかを決めかねて、不器用に棚に背中をぶつけたりする(そして女中に色目を使うのを忘れない)。だから、フェルミーノの死の通知を友人たちが告げにドアを開けると、すっかり告白が終わって抱き合い唇を重ねるヴァンダとリカルド(この時点ではダニエル)がみせる復縁の場面で、幸福そのものであることを強調する効果音がばかばかしくも鳴り響くのを聴いて、もはやわれわれに残されている態度はたったひとつしか残されていないことを知る羽目になるのだ。もちろん、その音楽が幸福を保証しているからではないことは明らかである。リカルドの告白が、その告白という性質上、それが本当の話かどうかはまるで当人には問題にされない。なぜなら、寓話的世界において告白とはそれ自体で真実であり、言表は即行為であり、その真実らしさはそれが嘘だと知らされるまではずっと続くものだからである。この自ら寓話の世界を生きるひとを、監督は祝福せんとしているかのようだ。そうでなければ、リカルドが結局は二度目の結婚の手続きのために法のまえで真実を告白したとき、三人の裁判官たちが有罪を下しながら――その罪が偽証罪とも詐欺罪とも名づけられることなく、努力したまえ、と通り一遍の説教を口にして、何の刑罰にも処さないあの信じがたいほど気の抜けたシーンを理解するすべはないだろう。しかしながら、サルビアの花が冷酷にも予言しているように、女は死んだ夫しか愛することができず、リカルドが死を偽ったとしても、それはずっと「死んだ夫」でいられるということではない。よみがえったリカルドは今の夫でしかない以上、愛の対象からは除外される。なぜなら、女の愛の対象があくまでも厳格なように、赤は死すべき者からしか流れない愛しい色なのだ。