電車にて

「どっちかっていうと、詩人になりたい」と、私に告げた女がいた。驚くほど無愛想な女で、その続きを聞くことをためらい、どうしてそんなひと言が飛び出してきたのか忘れてしまった。いつもだらしなく口を開けている女で、耳をあてて近づいてみると、どんな音がその口腔から響きだすのか、聞きたいと思わないこともなかった。女の鼻の下は、不必要に短く感じられた。不必要に短いものには、なにかしら心に惹かれるものがある。女が笑って歯茎がむき出しになると、スカートの似合わない女の生白い二本の脚がむき出しになるように、威勢のいい白い歯がむき出しになった。女の前歯は上の六本ほどが、驚くほど似た形で、しかも均一な大きさだったので、いつも眼を奪われたものだ。ふつうであれば、歯型はゆるやかにカーブして半円を描き、奥歯にいたって顔の真後ろに向かっているものだが、女のその六本の歯は、整然とまっすぐに並んでいた。だから、どうして女の歯が口のなかに収まっていられるのか、気になってしまうほどだった。女の口それ自体は小さく、唇の端に歯は隠れていった。笑い顔は習慣のようなもので、いつも笑っているようにしか人間は笑うことができない。だから、女もまた習慣的に口をそのような形に結んだのだのだし、そのままの表情でじっとしてて、といえば、一分くらいは同じ表情を保つことができただろう。だが、女の下唇は、そうはいかなかった。六本の整然と並んだ真っ白で健康な歯の下で、だらしなくも分厚い唇が形も定めずにうごめき、ときにはつばきの泡が小さくその領土を湿らせているのを見つけて、はっとすることもあった。女は全体として、驚くほど無愛想だったのだが、それは顔の上半分の話で、下半分に、何か「汲めども尽きぬような」といった印象の世界が広がっていた。女のことはもう忘れてしまったが、顔だけ覚えていたのもそのせいだ。だから、私が電車に乗り、ふと眼にした雑誌の記事に、彼女の名前を見つけたとき、唇と歯の映像の記憶と重なるまでに、長い時間がかかった。思い出の口が、「わたしはどっちかっていうと、詩人になりたい」と告げたときにはすでに、私はその記事に釘付けになっていた。座席のとなりの男が眼を落とす雑誌を無心に眺める私の顔は、電車空間における窃視という手軽な欲望にとらわれた者が浮かべる痛ましいほどの無表情に陥っていたはずで、ふだん電車でこのような横目にらみに出くわすたびに、自分に深く戒めていたものだが、そのときはかまってなどいられなかった。記事のタイトルは男の毛深い腕に隠されたまま、眼にすることができなかった。また、非常に残念なことに、私は熱心に読み込んだはずのその記事の前半部分を、いくぶんか忘却している。だから、ここに採録するのは、あくまでも私の記憶が構成した文章に過ぎない。その記事は、こんな風に始まっている。


最近テトラポッドと猫にはまっています。丸みを帯びて突き出したものと毛が生えたもの。このルーツを探ると、人間ってやっぱりミドリムシの仲間なんだなあって思います。五年生のころ飼っていたインコはよく声マネをしましたが、人間の言葉は一度もしゃべることができませんでした。これってよく考えると、怖くないですか。怖くて叫びたいときって、言葉になってませんもの。それに、怖さは伝染します。そういえば、わたしは金曜日の夜によくげっぷをします。鳴ると止まらなくなるから、みんなが浮かれているときに人前に出られません。だれか助けてください。留学から帰ってきたばかりのわたしに、声をかけてくれるひとはだれもいませんでした。だからわたしはいまだに正午のおやじの妄想の世界にいたのですが、ガムシロップを二個入れたアイスティーをあぐらをかいて両手でコップを持って飲むのが好きです。たまらなく好きなので、だれもいないときにしか飲みません。ある人が言うには、十九という数字を見たり解読したりするぶんには幸せになるけど、口に出したとたんに不幸になるそうです。これって結婚に似てますね。


 私の不完全な記憶は、わずかにここに載せることができた文章しか留めていない。また、「十九」と「結婚」を結びつけたくだりまで読み進んだところで、雑誌の持ち主は私の視線を感じたのか、折りよく空いた端の席に移動してしまった。私はその後も記事の続きが読みたくてたまらず、せめてもと雑誌の表紙を見ようとしたが、それが赤と黒の二色で構成されているとわかったところで、私の降りる駅に到着した。私は電車を降りた。
 帰り道、思案に耽った。彼女の書くような文章が載る雑誌とは、いかなるものだろうか。それはたいして分厚くもなく、ファッション雑誌の二色刷りページではないようだが、では、あのような文章がいかなる雑誌に載るのだというのか。
しかしながら、問題は記憶ではなかった。ほそぼそとでも、彼女と関係を持っていたら、今頃はメールでもしていたはずだ。もし同姓同名だったら、笑ってやりすごせばいい。そのときも、彼女は私の記憶と同じとおりに笑ってくれるだろう。
昔、ふたつのタイプの女がいた。聡明なタイプと、一見して愚鈍と思われがちなタイプだ。聡明なほうはあるとき、「知りたいんじゃなく、納得したいの」と言った。そうではないタイプの女の子は、「はあ? ばっかじゃねーの」と言った。今では聡明と愚鈍に関する基準は、正反対になっている。あのころは、何も知らなかった。唇の女の子は、まぎれもなく後者であった。聡明な人間こそが詩人になるべきだと考えていた当時の私は、「どっちかっていうと」と切りだした女のひと言に、なんら関心を払わなかったのだ。
私はよく、他人が書いたばかばかしいブログの日記記事を読むのが好きだったが、女の書いた文章は、そうしたたぐいの文章の呼吸を完全に体得している。ここで採録した文章は、実際のところ、私が読んだ女の記事とはいっさい関係なく、単に雰囲気を伝えるためのへたくそな模倣に過ぎないのだが、それでも一、二のフレーズは、もとの面影を残しているはずだ。