電話にて

 Kから二週間おきに電話があった。私の携帯電話は、着信音が四回鳴ると、留守番電話サービスに接続される。日ごろ顔を合わせていない相手や、仕事上のやり取り以外の電話には、この四度の着信音の範囲内ではどうしても出る気にならなかった。だから地元のKから連絡があっても、通話ボタンを押さなかったり、着信の数時間後に気づいたりして、連絡が滞っていた。
 だから、その日Kからの電話を受け取ったのは、まったくの偶然、というよりは、なにか人心に触れたいという安易な感情からだった。ひどく朴訥とした男で、その名前は神聖なアイヌの単語から取られてつけられたものだった。私も含めて無学な同級生たちがその名の由来を知っていたのは、Kの父が登山の古強者で、休日にはボーイスカウトを組織し、地元の小学生を山登りに駆り立てていたからで、その趣味自体は田舎でもとりわけ変人の一要素として取り上げられることはなかった。田舎でもっとも忌避されるのは、マラソンランナーだった。東京の住宅街では深夜でも黙々とピッチを維持するランナーが大勢いるのに、なぜあんなに田舎では毛嫌いされるのか、私はいまだにその理由がつかめていない。しかし、すくなくとも登山は公認の変態といった程度の需要のされ方であり、Kはそのことでいじめられることもなく、むしろある種の尊敬すら集めていたのだが、その原因にあるのはKの独特の正義に関する姿勢のせいばかりではなかった。もっとも大きく作用したのは、Kの父親が子どもにいっさいのゲーム機器を与えなかったことであり、その点がKの幼少時の私生活をもっともわれわれと引き剥がしていた。Kは、どの友達の家に押しかけるのでも一も二もなくゲームの電源を入れなければ気のすまない同年輩の子どもと過ごし、コントローラーを与えられれば断るでもなく手に取り瞬く間に撃沈され、それでいて勝負心を掻き立てられることもないかのようであった。だから、小さな子どもが同年輩の子どもに向ける尊敬に、どこか同情の念が混じるように、私のKに対する思いは、Kの父の厳格さとその生れの不幸とに結びついていた。
 そのKが数年来顔を合わせていない私に連絡を取ろうと思った由はわからない。Kは私より数段頭のできもよかったのだが、高校を卒業するとすぐ地元のスーパーマーケットに就職した。私はそのことで喜んだが、母は違った。その母にしたところで地元にあいついで出店することになった大型ショッピングモールで働いていたのだから、私にはやはりその違いが理解できなかったが、それでも母の軽侮は理解できた気がした。私はKの声変わりした声、客商売を続けて得たであろう常に変わらぬ一定した張りの強さを維持するその声にたじろぎながらも、以上に叙述したようなことを矢継ぎ早に考えた。
 Kの声は驚くほどつっけんどんで、なぜ私に連絡をし続けてくれたのか、不振に思うほどであった。Kが言うのは、自分は仕事を最近変え、むしろ人目につかなくなることをすがすがしく思っているというような内容であった。客商売が植えつけた第二の声変わりに気づいていた私は、そのことを祝福すべきなのかどうか、一瞬迷った。と同時に、まったく顔を合わせていなかった間の相手に起こった出来事を間接的に知っているという、田舎の人間特有の口伝えに伝え合う情報網に支えられた稀薄な人間理解を、どこか恥じるような調子が双方にあって、しばらくのあいだ、ふたりとも受話器越しに、相手の耳が携帯電話とこすり付けあう奇妙な雑音に聞き入っていた。
 だから、俺、今……やってるんだよね、というKの標準語の告白は、私にはまったく聞き取れなかった。私は聞き返したがらちがあかず、Kはようやく重い口を開いてその仕事の説明をしだした。
 話を要約すると、その日は地元の新聞紙がKの父の仕事と趣味の境界のない優柔不断さ(これは文字通りKの言葉である)を特集に来たのだが、同行したディレクターが、Kを見るなり君しかいないとつぶやいたそうである。Kはその場面をいささかばつがわるそうに再現した。ディレクターの瞳は、Kのむきだしの立派なふくらはぎと、切れ長の瞳に交互に向けられたはずだ。私自身嫉妬するくらい、Kは見目形がよく、なによりも女に言い寄られることを一切公言しなかった性格が、いじましいながらも好感が持てた。こうして表舞台に立たせようとする一言がKの身に降りかかることは、大いに喜ぶべきことである。
 しかし、後日晴れの一張羅でテレビ局に日参したKを待ち構えていたのは、赤い全身タイツであった。ローカル局で、戦隊物のパロディを放映しているところは決してすくなくないだろうが、私の地元では、とおり名でいえば赤レンジャーしかいなかった。その男は猟師のせがれという設定で、地元の営利企業とひとくくりにはできない人情を備えたみやげ物店を侵食する荒唐無稽な怪物――ときにはすぐ北にある核燃料再処理施設の揶揄ということなのだろうか、キノコ型の頭をした怪物も現れたが、そいつはエノランマ・ゲイ二分の一といって、ある光を浴びた途端意志にかかわらずに性転換してしまうあわれなだみ声の怪物であった――と、三ノットが最高速度の漁船に手を組んで乗り込み、正義の名を訛りを隠さない奇妙な方言で公言して、火薬の出てこない気の抜けた戦いを挑む、髭面の不精な男として認知されていた。この漁船は画面には決して出てこない運転手が運転しているのだが、ともかくこのローカルな戦隊物の着ぐるみのほうとして出演してくれないか、というのがKが受けた仕事の依頼だった。髭面の男は太鼓腹であったが、赤レンジャーに変身したときは(Kのような)精悍な体つきになってもかまわないという。Kは、持ち前の現実感覚を駆使して、今のボーナスも滞りがちな仕事よりもギャラがいい事を目ざとくも発見した。もっとも、それは放送が続く限りのことではあるが、ディレクターは抜け目なくも、Kに「生身」のほうもまかせられるから、と昇進栄転の話を持ち出して釣ろうとしている。Kの話は、この話を自分は受けるべきだろうか、といった話ではなかった。じつはもうスーパーマーケットの仕事は辞表を提出しており、もう三話分の収録を済ませたという。そのうちの二話は九月に放映もされている。
 だから、Kの告白には、事後報告に見られるある種の気まずさというものが漂っていた。
「じゃあ、相談っていったい何なの」と私は思わず切り出した。
 Kは侮辱されたかのように押し黙っていたが、やがて口を開いた。それによると、自分の生きてきた二十六年の人生のなかで、私ほど性格の悪い人間はかつて存在せず、しかも、君の性格の悪さは、それほど不快なものではない、と言ってのけたのだ。
 だから、とKは切り出した。「戦隊物みでんたわかりやし悪どって、おめほどちょろまかすみでんたく演じっれるものだばいね」とKは懐かしさの感じられる方言を丸出しにしていった。私のほうはいえば、何度も喧嘩をしたが、同じ回数だけ仲直りをした男とKを見込んでいただけに、携帯電話とはいえ、面と向かって性格の悪さを指摘されるとは思わなかった。そして、Kの指摘は私にとっても自明のことでもあり、驚くことにまったく不快ではなかったのだ。まがりなりにもヒーローを演じるKにとって、相手である悪役の力量は相対的に彼の輝きに反映される。そうではあるが、人事や風紀にかこつけた陰口に関する事柄以外は悪に関する発想がおおむね貧困な地方局において、悪役の造型を考えられる人間はいない。やがて「生身」もまかされるかもしれないKにとって、それは死活問題を意味した。そこで幼少時の私をよく知っているKは、私に眼をつけたのだ。要は、着ぐるみの正義漢に、着ぐるみの悪役をやらないか、と誘われているのだった。
 私は二十六年の人生にいたたまれない禍根をのこしながらも、つよく固辞したのだった。