(その二十八) 二葉亭四迷

 私が二葉亭を珍重おかないのは、彼が矛盾と撞着に満ちた人だからである。空想家でありながら、空想家でないと言いはってきかない人だからである。
 文学は男子一生の事業でないと彼は口で言うばかりか本気で思って、国事に奔走するのが男子の本懐だと信じていた。彼にはすこし遅く生れて来た維新の志士の面影があって、いつも社稷を憂えていた。けれども、世の常の慷慨家ではない。経世の抱負と、それを実現する機略ある志士だと自ら任じていた。事をおこす前の調査は綿密詳細をきわめた。彼の政治的な、また経営的な才能を認める人もないではなかったが、認めない人のほうが多かった。
 二葉亭の人柄を示す挿話の一つに、彼が四谷津の守の写真館に女を住込ませ、一人前の女写真師に仕立てようと試みたことがある。それはいかがわしい商売の女で、真人間にしてみせると二葉亭は言ったのである。
 当人は女を醜業から救って、写真館に奉仕させたつもりでも、世間はそうは見ない。二葉亭をその女の情夫、または旦那とみる。みるほうが当り前で、女もまたそう思う。金を出して助けてくれたのはありがたいが、女を相手に社稷を憂えられては、女は迷惑するばかりである。手を握ってくれなければ男ではない。こういう境涯の女は、男に報いるにほかの何をもってしていいかを知らない。すでに壮年の二葉亭がそれを知らないとは世間は信じない。
 馬鹿なことをするのはよせと、いくら言っても聞かなかったと魯庵は述懐している。ずーっとあとであの女はどうした、真人間になったかと聞いたら、二葉亭はいかにもきまり悪そうに笑ったという。
 はにかんだような、体裁の悪いような、こういう時の笑い顔を、私がまざまざとおぼえているのは、魯庵がそれを書いておいてくれたからで、私は読んだことを忘れ、じかに見たつもりになるのはむろん私の手がらではない、魯庵の文の手がらである。
 二葉亭の弱点を、魯庵は弱点だとみていないようである。たとえば、日露戦争中はもとより、戦争が終ったあとでも二葉亭は日露の問題を論じてやまなかった。
 日露の仲は戦争の前より、戦争のあとのほうが大事だと二葉亭は言う。そのすこし前、二葉亭は朝日新聞の社員になっている。池辺三山が招いて社員にしたのである。そこでしきりに論文を書くが、それは詳細すぎて新聞むきでない。戦争中でも読まれなかったしろものだから、戦後派だれも一瞥もしない。けれども専門家が読むと、東露及び満州の輸送力を論じた一文の如きは、参謀本部も舌をまくほどの調査だったそうである。それは陸軍省むき外務省むきだったから、新聞はさぞ迷惑だっただろうと魯庵は察するが、二葉亭は察しない。
 よしんば迷惑でも天下国家のためだもの、新聞はすこしは忍ばなければならないと、いくら没書にされても欠くことをやめない。二葉亭の評判は、新聞社の内外で悪くなるいっぽうである。それなのに池辺三山は平気である。
 三山は朝日の大記者で、二葉亭のあとで漱石を招いた人である。これが成功したことはいまも語り草になっている。世間は二葉亭を文士とみている。三山はもう一度小説の筆をとらせようと、手をかえ品をかえ、とうとう「うん」と言わせる。そうして成ったのが「其面影」で、三山に対する義理で書いたものである。
 それでも「浮雲」以来二十年ぶりの創作だから、二葉亭は心配でたまらない。小説の題を選んでくれと、魯庵に手紙で相談している。見ると「二つハート」「心づくし」「破れヰオリノ」などの候補が並べてある。「破れヰオリノ」の如きは、弦の切れたバイオリンの絵まで添えてある。
 時は明治三十九年である。硯友社の時代は去って、自然主義の時代である。それに何ぞや「破れヰオリノ」とは!
 魯庵は二葉亭の心中に、まだ山東京伝為永春水が巣くって去らないのを思って暗然とする。何回か手紙を往復して、結局「其面影」に落ちつくが「其面影」だってまだ旧式である。
 魯庵は「其面影」の成功を危ぶんでいるが、はたしてそれは二十年前の「浮雲」に何物も加えなかった。「浮雲」は若々しかったが、「其面影」は生気を欠いていた。けれども世間はめくら千人である。朝日は社をあげて感嘆して、迫って「平凡」を書かしめた。これまた評判で、その一節がのちに教科書に採用されたことはご存知のとおりである。
 二葉亭は怏怏として楽しまなかった。半生の志はすべて成らないで、望みもしない文名があがったのはいかにも無念だと、ついに神経衰弱におちいった。三山はやむなく彼を露都ペテルスブルグの特派員に推薦した。二葉亭の喜びはいかばかりだったろう。それなのに二葉亭は露都へ着任して、いくばくもなく病を得て帰国を余儀なくされ、その途次明治四十二年、四十六で死んだ。
      山本夏彦『完本 文語文』文芸春秋 69〜71頁