(その三十) ベルトルト・ブレヒト

 学校では紋切型の教師たちに飽き足らず、学業を怠け、両親と先生を悩ました。当然の結果として、進級がむつかしくなったこともある。当時の同級生で後に医者になったオットー・ミュラーブレヒトミュラー=アイゼルトと呼んでいた)の回想するところを信用すれば、この怠け者の生徒はまたたいへん「狡猾」な人間でもあった。あるときニ、三の誤りを訂正されたフランス語の答案を教師から返されると、ブレヒトはまちがっていない箇所にもまちがいの傍線をひいて、それを持って教師に歩みより、ここは誤りではないじゃありませんかと抗議して、その分だけ点数をましてもらい、まんまと進級したという、よく知られた逸話が語り伝えられている。また、すでに大戦勃発の切迫した空気の中にあって週に二回、ときには日曜日の午後まで少年たちを駆り出していた「国家総動員隊」なる美名のもとに施された軍事訓練に、父のサインを巧みにまねて欠席届を書き、これをサボったとも言われている。いずれにせよ、若年にしてすでに身についたこのような「狡猾」については、その感傷や饒舌への嫌悪同様、伝記作者の一人はブレヒトの家系がバーデンの百姓の血をうけており、農民特有な、強情でずるい性格を遺伝したのだと解釈し、これをブレヒトの「シュヴェイク的」態度と呼んでいる(マルティンエスリーン)。それに対しロナルド・グレーはあまりこの一面だけを強調すべきではなく、これと対をなすかのごとくブレヒトの心内にあった、それ自身のために行使される徳業に対する異常に強い同感を見逃してはいけないと言う。ブレヒトはよく人と話をしながら、ニヤリと「狡猾」そうなほくそ笑みをもらした。これは、彼を知るたいていの人たちが口をそろえて証言しているところだが、それも決して相手を話術の落とし穴に誘いこんでしてやったりと意地悪い喜びを味わったときの笑いではなくて、相手の言葉を巧妙に自分の目ざす結論にひきよせたときの喜びの笑いであった。
    菊盛英夫『ベルト・ブレヒト ある革命的芸術家の生涯』白水社 一九六五年四月二十五日発行 28~29頁