(その三十二) ダヴィデ・マリア・トゥロルド

 今日、ダヴィデ・マリア・トゥロルドは、大手出版社のモンダドーリなどから詩集の出る、彼なりの読者層にささえられた詩人である。彼の詩は、語彙としてはレオパルディの抒情詩に、また形式的には初期のウンガレッティにつよく影響されていて、それが本人に意識されていない分だけ作品の弱味になっている。とくに近年の作品は、饒舌にながれ、形式の弱さがめだつ。ロンドンのころ、私があれほど彼の詩に傾倒していたのは、ひとつには、それ以前につかまっていた、ぺギイからベルナノスという、いわゆる行動的キリスト教文学からサンテクジュぺリに到る流れのなかで、彼の作品を「英雄」にからめて理想化していたこと、そして、私自身があまりにも詩を知らなかったからだと思う。しかし、中世キリスト教神秘主義の伝統が、現代の語彙のなかで、ややバロック的にアレンジされた、彼の、とくに初期の作品には、いまなお捨てがたいものがあるのも事実である。
 ロンドンでのダヴィデは、祖国から追放された人間にしては、けっこう生活を楽しんでいる様子だった。すくなくとも私の目には、そうみえた。ある日、やはりイタリアから彼をたずねてきていた友人のガブリエーレと三人で、ジャック・タティの「ぼくの伯父さん」を観にいった。イタリアとはちがって、ひっそりした映画館のイギリスの観客にまじって、ダヴィデの笑い声がふいに怒濤のようにひびくと、ガブリエーレと私は、彼のイタリア的な地声に恥じいって、小さくなった。しかも、どういうわけか、ダヴィデの笑い声がクライマックスをすぎたころに、イギリス人たちの静かな笑い声が、さざなみのように、上品に、ひろがる。もう、おまえとは、いっしょに映画を観ない、とガブリエーレがつぶやいたほど、この人物がイタリアでは、すくなくともミラノでは、いちおう名の通った詩人とはとても信じられないほど、それは調子っぱずれな声だった。
 ロンドンのダヴィデは、ガブリエーレと私を田舎ものあつかいにして、どこへ行くにも、自分が先に立って歩いた。道を横断するときも、そらっ、渡れ、とかなんとか、彼が胴間声をはりあげて号令を下す。そのまえに動くと、私たちはこっぴどく叱られた。二メートル近い大男のダヴィデと、すこし片足をひきずって歩く童顔のガブリエーレと、ちびでやせっぽちの日本人の私が、もつれるようにしてロンドンの街を歩いていた奇妙な光景は、それこそジャック・タティの映画みたいだったかもしれない。
(中略)
 それにしても、ダヴィデはよく人と衝突した。「ガラス屋に踏みこんだ象みたいだ」と、彼のことを友人のガブリエーレがよくいった。「そっと歩くことをあいつは知らない」。巨軀、といえる体格で、こころもち膝をまげ、まるで突進する消防車みたいに、風をきって歩く。黒い修道衣を旗のようになびかせ、すねたこどものように、口をとがらせて。「あいつは経験によって賢くなるということがない」とこれもガブリエーレがいっていた。”Born Yesterday”(日本では『野生のエルザ』)という本が売れたころ、彼のことをそう呼ぶ人もあった。昨日生れたばかりじゃあるまいし。無邪気というのか、ばかというのか。彼が教会の上長と衝突したという話がひろがるたびに、友人たちはそういって彼に腹をたて、それでいて、彼のことをしんそこ気づかうのだった。
 ダヴィデが衝突したのは、教会の上長だけではなかった。あるとき、ツィア・テレーサの車で、スイスからの帰り、イタリア側の国境で税関の役人に彼がくってかかった話をきいたことがある。なにが気にさわったのか、「きみたちは、税金のタダぐいをして」というようなことをいったのだという。税関兵をおこらせて、と運転手のルイジが話してくれた。いやがらせに、もう、床マットの下まで調べられました。あげくのはて、くだらない目覚まし時計かなんかに税金をかけられたりして。
      須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』文芸春秋 一九九二年四月三十日第一刷発行 42〜51頁