魔法の一振り アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』(2010)

 男と女がいる。
 女は男の顔を見て思う。この人は結婚式の日にも髭を剃ってこなかった。一日おきに剃る習慣だから、今日はたまたま剃らない日なんだ、といって。あれから十五年経った。今日もこの人は無精髭を伸ばしている。剃らない日だからって。馬鹿にしてるわ。いつも自分の都合ばっかり。私の化粧だって気づいてやしない。
 男は女の顔を見て思う。妻はいつも怒っている。俺が疲れて眠ったからってなんなんだ。いびきだと? 俺はいびきなどかかない。結婚記念日だったのは悪かったが、男には仕事があるんだ。疲れるのは当然だ。そうがみがみ怒らないでくれ。人の話もろくに聞いてやしないじゃないか。
 男と女は見つめあう。いつも自分の主張を譲らず、けんかばかりしている。ふたりは十五年間そうして過ごしてきたが、今日会ったばかりなのだ。自己紹介しあい、ふたりはドライブにでかける。
女は夢中で話しかける。あなたを車に乗せる日がくるなんて。いつまでいられる? 街を案内するわ。
男は言う。楽しそうだ。でも、約束があるから九時までには帰らなければならないんだ。
 アッバス・キアロスタミの魔法の一振りは、ウディ・アレンならそう描いたかもしれないように、うまくいかなくなった夫婦の別れから逆算して男女の出会いを語ることではない。彼は人が悪いから決してめでたしめでたしとは言わないが、ウディ・アレンの魔法のなかでは、耳慣れた童話のお話によくあるように、せき止められているからこそ時間は流れはじめる。それに対してアッバス・キアロスタミの魔法のなかでは、十五年前と今日を区別しない。時間は始めも終わりもなく同時に流れ始める。だから、今日という時間はふたりが過ごした十五年間のいずれの日にも当てはまらない。今日は十五年後でもなければ、これから十五年続くであろう最初の日でもない。時間が同時に流れる世界では、そのような計測はできないのだ。男と女は出会う。それが今日と呼ばれる日であったとしても、最初の日ではないのだ。なぜなら、出会いが意味するのはこれから夫婦になるふたりの時間の始まりなどではなく、単に今日という一日でしかないからだ。だって、それが十五年も続くとだれが知っているのか? それに、なにが十五年も続くというのか?
 アッバス・キアロスタミの『トスカーナの贋作』(2010)では、一方ではウディ・アレン流の軽妙洒脱な物語の発端が用意される。画廊を経営する女と贋作について研究している男が出会い、ドライブにでかけ、ふらりと立ち寄った喫茶店で夫婦に間違われたことから十五年連れ添った男と女をたわむれに演じる、というプロットがそれである。ふたりはイタリアの結婚の聖地で、ゴーギャンの有名な絵を想起させる、夫婦の始まりから終わりまでのそれぞれのカップルの脇を通り過ぎながら、嘘と真実のあいだを揺れ動く。なるほどこの説明は簡潔だが、正しくはない。ウディ・アレンだったら「たわむれに」と書いたように、どこかで演じる自意識のようなものが主題として浮き上がってきたことだろうが、アッバス・キアロスタミの映画では、この役柄に移行する瞬間の跳躍が、嘘のように消えてなくなっているのだ。喫茶店で夫婦と間違われた瞬間から、ふたりはごく当然のように、初対面のふたりの初めてのデートであると同時に、十五年連れ添った夫婦の痴話喧嘩を繰り広げる。ふたりの会話のなかでは女の手を焼かす「小さな哲学者」である子どもと携帯電話の着信音が結束点になるほかは、彼らがどちらの時間を生きているのかを、われわれはあらかじめ前提にできない。彼らは「演じている」という意識がそもそもない。だから、見るものは困惑してしまう。いったい彼らはどこまで本気なのか、と。
 この中間段階の喪失は、二重人格や記憶喪失や騙し絵や多層世界などの語彙で語られるべき問題ではなく、われわれが劇を見るときごく当たり前に享受している心理的な状態と関係がある。俗に「なりきる」と言われる役者の状態は、「演じている」という意識が感じられない状態のことだ。演技は虚構の世界の現実感を約束する嘘の手形だ。それが嘘であり続けることによって、真実が保たれる。これはありふれた約束事だが、われわれはそれをごく自然な態度で受け入れる以上にはそれをよく知ろうとはしない。ここに評価という視点を持ちこむのは早い。そのように考えると、演じる対象は完成された、演じ手がぴったりと当てはまる終着点となってしまう。そうなれば、演技は演じるまえの存在を結局は消してしまう行為に過ぎなくなるだろう。「なりきる」という言い回しがすでに、もとの自己の消滅を暗示しているように。だが、われわれにかけられた魔法は、どちらか一方という選択が織りなす物語ではなくて、どちらも同時に存在してしまうという不思議なのだ。
 われわれはふつう、カメラが回っている瞬間は、俳優は演じていて当然だと思いこむ。それでいて、カメラが回っていない時間に俳優がなにをしていようが気にしない。それはしょせんフィルムに映っていない事柄だからだ。このように、演技をしていない時間と演技をしている時間は別のものだと考えられることで登場人物の一貫性は保たれる。だが、カメラが回っている時間に俳優が演技をしていると考えることは、それほど当然のことだろうか? 同じように、カメラが回っていない時間に役者は演技をしていないと考えることは、それほど当然のことだろうか? 観点を変えてみよう。俳優がその演技のなかで、さらに別の人物なり別の時間の自分を演じるとなると、演技に移行するまえにアクションがほしいと人は思う。そうしないと区別できないからだ。では、なぜそうした区別が必要だと人は思うのか? 一方(演技)では、演技を感じさせないでほしい(なりきってほしい)と思い、もう一方(演技のなかの演技)では、演技だと感じさせてほしい(なりきらないでほしい)と思う。こうした区別はなぜ生じるのか? 区別をするまえに、同時にそれらを見てみよう、演じるまえと演じるあとといわれているものを、同時に、同じ構図でだ、というのがアッバス・キアロスタミのかけた魔法である。彼はカットの声をかけないという意味で、この映画は『桜桃の味』(1997)の延長にあるといえる。
 どこまで彼らは本気なのだろうか。こうした思惑は大部分われわれに似通ったものを区別する指標がないことから生まれる。実際、彼らが会ったばかりで、かつ十五年暮らし続けたのなら、そのあいだの時間を示すなにかが欲しいと思うだろう。マキアージュの技法はこうして時間を形象化する。しかし、それは似通ったものを区別するためだろうか。皮膚に刻まれた皺や白髪や曲がった背中が示すのは、区別するためというよりも積極的に混同するために、画面に映る存在が同じだれかであることを確信するために存在するのではないのか。『トスカーナの贋作』にそのような配慮がないのは当然だ。この映画は幻想を排する。ただ、似通ったものは別々のものであり、同じものではないことを示すために。
 幻想は混同させる。混同することは単純化することではない。単純さとは、単純には語れないものだが、幻想がもたらす統一性とは違うといえる。幻想の統一性こそが、ものごとに真実らしさを与える。嘘が真実らしくみえるのも、真実がいつでも真実らしくみえるとはかぎらない程度に確かなことでしかない。真実は、真実をみようと欲するものによくみえるだろうか。まずは単純に見ることだ。単純さとは、見ることにおいてしか生まれない。映画の厳格さはこの規律を守ることで保たれるだろう。
 ふたりは中間段階のないふたつの時間を演じる。やがてたどり着いたホテルの部屋は、三階の九号室で、思い出の部屋だという女のあとを男は追う。女はホテルの部屋から見える景色を憶えているという。
「思い出せないな」
「信じられないわ。忘れるなんて。じゃあこっちの窓を見て」
 記憶がすれ違うのは、彼らが共通の嘘を演じているわけではないことを示している。確かに彼らは十五年過ごした夫婦なのだ。男は女の寝そべるベッドに坐るが、近づかない。男が再び立ち上がると、窓から射しこむ陽に二羽の飛び去る鳥の影が走る。
 男は帰ったのではなく、小窓から教会の尖塔の見える、おそらくは洗面所にいる。男は鏡をじっとみつめる。男は習慣の動物だ。だが、妻は髭のことをしょっちゅうけんかの種にする。一日おきにしか剃らない髭のことを。
 しばらくの思案のあと、男は部屋に戻る。
 このラストの基本的な動作は、すべてが美しい。
 男がここで髭を剃り始めでもしたら、まさに男が十五年後の男でしかないことを、そこに選択が行われたことを、示してしまったであろう。
 それに、女はけんかの種に男の髭のことをしょっちゅう持ち出すが、一度も、剃ってと言わなかったことを、われわれは覚えている。「結婚してどうなるか、その先がわかっていたらしていなかった」という台詞がいくどか口にされるほど痴話喧嘩に終始したふたりの会話が、嘘のように息づいてくるのも、このラストのなにも起こらない、ただそれをしなかった、ということがわかる瞬間によるのだ。