ピューリタン風のディズニー映画 エルンスト・ルビッチ『天国は待ってくれる』(1943)

 戦時中に製作された、ひとりのドン・ファンの生涯を描く映画――ということで、猟色家のカサノヴァの人生をいろどるにふさわしいエピソード群(性の目覚め、恋の手練手管、駆け落ち、不和をまるめこむ巧みな話術、数々の浮気)をまとめるエルンスト・ルビッチの演出は、すべての出来事が一目ぼれという恋愛衝動によって正当化され、不美人に対するあからさまな蔑視が随所に顔をのぞかせているにも関わらず、見るものにきわめて抑制された印象を与えるだろう。しかし、艶笑劇に特有の奔放な女性遍歴の開陳が影をひそめ、慎ましやかな信仰告白にとって替えられるのは、なにも時代状況の必然が生んだ強制からではない(もしそうだとしたら、そもそも一九四三年にこの題材は採用されていなかっただろう)。女のつく秘密や嘘に惹かれるように、男は目撃から追跡に、追跡から告白へと男女の出会いの段階を駆け足で移動していくのだが、こうしたドン・ファンの典型的な行動様式を取りあげるルビッチの演出は、慇懃だが決して嫌味に陥ることのない流麗な台詞の応酬にみてとることができる。ふたりの人物の何気ない会話に、第三者が役に立たないメッセージの伝達役として仲介されることによって、男女の趣向や認識の相違をほどよく戯画化してみせる手腕には、ある種の品のよさすら感じられる。前年に撮られた『生きるべきか死ぬべきか』(1942)でゲシュタポをやり込めるさいにルビッチが用いた、三つある部屋でドアを開けるたびに態度や服装(制服)を変えるという、政治的な生真面目さ(主義の一本化)に対抗する演劇的手法の優位の、手ごろな応用をそこに認めることもできるだろう。また、男が女のあとを追う場面を九十度もしくは百八十度のパンショットと最短の移動撮影で見せるふたつか三つのカットは、ほとんど完璧だといっていいくらいだ。加えて、台詞劇でかつ群像劇という設定上、人物造型はあるていど類型化されるのだが、演劇においては性格の類型化と一面化はまったく次元を異にするという教訓をルビッチは教えてくれる。ここで一例を挙げよう。ヒロインのマーサの父親は、南部の出身で資産家だが極めて実行力の薄い家父長的存在として描かれている。彼は野卑で、肥っていて食事のことしか頭になく、黒人の執事を奴隷と見なしているのだが(時代設定は一九〇〇年前後)、こんな汚れ役の男にすらはっとさせられる場面が用意されている。父親である男は駆け落ちした娘が十年ぶりに戻ってきたとき、即座に追い出そうとするのだが、妻に言い聞かされて娘を家のなかにいれる。男はしかたなく出戻り娘をもとの部屋に入れることにする。このあとのカットで、男はハンカチで鼻と目をこすり、娘のトランクを両手に持って、妻と娘が身を寄せ合って階段をのぼっていくあとをゆっくりとついてゆく。この何気ない演出は思わずほろりとさせられ、先ほどまで黒人の執事を鼻で使っていた彼の専横な態度を一瞬忘れさせるほど魅力的である。彼が一面化された人物であったら非難の的にしかならないが、肖像画家が瞳の虹彩を描くために最後に白を加えるように、ルビッチは類型化のあとに深みをもたらす一点を加えるのだ。さらに、ドン・ファンである男の誕生日のお祝いを軸に、過去のさまざまな場面を時系列的に並べる手法は、同一の場面で同一の人物がかわす会話に、来訪者が割りこんでくることによって示される。来訪者はさきほどまで少年だったのが青年に代わっていたり、新しくできた子どもがとびこんできたりすることによって、時間が数年単位で移行したことが知れるようになっている。この時制表現に関するアイディアには、後年テオ・アンゲロプロスが『ユリシーズの瞳』(1995)で用いたような、同一の場面、同一の構図、同一の動作のなかでフィルムを切ることなく時代と為政者の推移を表したアイディアのはるかな源流を認めることさえできるだろう。また最後につけ加えれば、主役のドン・アメチーに比べてヒロインのジーン・ティアニーの目も当てられない大根役者ぶり(彼女は泣き濡れて鼻をすするときとくしゃみをするとき同じ表情をする)が目立つのも、ごくまれには思い過ごしではなかったかと感じさせるほどにルビッチの演出は健闘している。しかしながら、こうした演出上の多彩さと完全主義からは説明のつかないような不均衡が、この映画には存在しているように思える。それは端的にいえば、この脚本が採用した入れ子型の構造が十全には機能していないことによる。
冒頭で、神殿の階段を降りてきた白髪の老人が、地獄の門番のまえで刑の宣告が下されるのを待つが、「最近は悪いやつが多くて忙しいので」、肝心の罪状がはっきりしない。そこで男は悪びれることなく生前の「罪」を告白することで、人生をふり返る。この『天国は待ってくれる』の導入から、華麗な女性遍歴は懺悔とともに語られるのかと思いきや、そうではない。数々の女性遍歴(もっともドン・ファン物としては少ないが)が語られていくなかで、主人公であるヘンリー・ヴァン・クリ―ヴ(ドン・アメチー)の愛は、実はただひとりの女性で妻であるマーサ(ジーン・ティアニー)に捧げられていたという結論が最後に下される。この奇妙な逆転は、閻魔堂の役人によって厳かに宣言される。「老いたカサノヴァ」がだれからも愛されておらず、身勝手な性格のまま女性から女性に渡りつづけたという告白当初の状況は、彼の人生がふり返られることによって劇的に変化する。これはふつうであれば、平凡な庶民に光を当てるO・ヘンリやモーパッサンの短編小説に典型が見いだせるような、なんのとりえもない人生を送った男が、過去をふり返れば忘れがたい、ささやかな出来事もあったという、あの語り口である。告白が終わったあと、閻魔堂の役人は、「君が幸せにしてきた女性たち」とまで言ってのける。つまり、浮気に浮気を重ね、狙いをつけた女の恋人が実の息子と知って手切れ金を包み、妻の死後は息子の会社に寄生してデートの資金をせびったこのドン・ファンは、恥知らずな猟色家でも、自分の欲望に気づかぬまま女を渡り歩く満たされない不幸な男でもない。一介の平凡な、妻を愛しつづけたごくありきたりな男なのだ。われわれは、エルンスト・ルビッチが作り出す愉快で陽気な雰囲気にともすれば惑わされて、喜劇的な装いのもとではなにもかもが許されるのだ、と鷹揚に結論を下してしまうかもしれない。確かに、この映画では恋に破れた人間の悲惨はいっさい見られない(いとこのアーノルドは、婚約発表当日にヘンリーから恋人を奪われるのだが、嫉妬も確執も見せないまま、後半には姿を消す)。むしろ、生涯ドン・ファンでありつづけるために老いを隠しきれずに女に求愛し続けなければいけないヘンリーのみじめな性分が決して暗くならないていどに強調されている。したがって、『天国は待ってくれる』はその扱っているテーマにも関わらず、フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1946)に迷いこんだカサノヴァ物の、ピューリタン風に味つけされたディズニー映画として封切られるべき作品に仕上がっており、観客は、未熟さに威厳がこめられ、みじめな隠微さが嬉々とした残酷さに駆逐されてゆく場面をいくつも目撃することになる。その意味で映画が製作された時代をあらためてふり返ってみると、映画が抱えているきわめて楽天的な傾向が、はたして良識と呼べるものなのかと考えこまざるを得ないのである。すべての告白を終えたドン・ファンは、その告白に信憑性があり十全なものなのかをついに詮索されることもないまま、閻魔堂の役人に宣告される。エレベーターボーイは、この白髪の男が「下」に行くのか、と役人に尋ねる。役人は指を一本立てて、ひと言「アップ」と告げる。このなんの皮肉もこめられていない、単純なハッピーエンドを額面どおりに受け取らない感性を、現代に生きるわれわれは教えられている。その監督は、二〇〇四年に公開された三部構成の映画で、同様に来世の世界を描いた。彼はその場面で、アメリ海兵隊の軽快な賛歌を流した。オッフェンバックの曲にのせて聴こえてくる歌詞は、「もし陸軍と海軍が天国の景色を見ることがあれば、天国の通りが合衆国海兵隊に守られているのを見いだすだろう」と言っている。天国は待ってくれる。このタイトルは、改悛することなく人生をふり返ることのできる人間がたどり着く最後からひとつ手前の場所を示している。死後に人生を肯定できるのがだれにでも許されているわけではないことを、われわれは冒頭から目撃している。天国と地獄の違いは、バッハやベートーベンやモーツァルトがあるかないかだ。いい耳をしている人間には、きっと地獄は辛いだろう。閻魔堂の役人はそのように言う。だとしたら、天国と地獄がそれほどの違いしか持たないように、来世はそれほど今生とかわらないのかもしれない。一九四三年と二〇〇四年に撮られた映画の行き着いた先は似ている。しかし、その違いを見極めなければいけない。われわれに残された健全さは、もはやそれほど健全ではないのだから、不健全さを健全だと思う楽天よりも、健全さを不健全だと思う皮肉のほうがいまだに信用に値するのだと言い続けることを、決してやめてはいけないのだ。