(その五十四)自嘲と呼ぶには程遠い

 あるとき唐突に、彼は奇妙なことに気づいた。彼の住むアパートと、向かいの側に建つアパートは、境界線の植木を軸とする完全な線対称だった。ふたつの建物は高さも、階あたりの部屋数も、ドアの大きさも、階段の位置も、手すりの色や材質に至るまでいっさいが同じだった。内部に入ったことなどなかったが、居間と和室に小さな台所という間取りもまったく同じであることは間違いない、ということはそこに暮らす家族の構成や、置くことのできる家具の大きさや家電製品の数もおのずから決まってきてしまうはずだった。家計全体に占める家賃の割合から逆算すれば、収入だってほぼ似たようなものだろう。部屋を出たところの通路の手すりに両肘をついて、信じがたい気持ちで向かい側のアパートを眺めていると、彼が住むのと同じ階、同じ部屋にあたるドアが開いた。そしてひとりの女が出てきた。歳こそ彼の妻と同じくらいに見えたが、横顔も、髪の長さも、歩き方も、妻とはぜんぜん似ていなかった。なのに、そのときの彼には、自分の妻が居間の妻であって、あの女ではないことがどうにも不思議に思われたのだ。あの向かい側の部屋に暮らし、毎朝あの部屋から勤めに出て、夕飯はあの女と、あの女の娘か息子と一緒のテーブルで食べる生活であったとしても何ら不都合はない、問題なく受け入れられるような気がした。
「つまり俺は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きているということだな」しかしそれは自嘲などと呼ぶには程遠い、じつに奇妙な達成感だった。そう感じることによって、彼は長い回り道をしたあとでようやく人生の軌道に戻ってきたような安堵感に浸っていた。


磯崎憲一郎「世紀の発見」河出書房新社河出文庫版)二〇一二年五月二〇日発行 九〇〜九一頁
初出 「文藝」二〇〇八年冬季号