(その五十五)門限

 私がはじめて溝口健二の作品を見たのは一九六四年のことです。場所はスペインのシネマテーク、フィルモテカ・エスパニョーラでした。その当時私は、漠然とした将来を抱えるだけの若者で、ふつうの生活から離れて二年間の兵役に服していました。兵役忌避をしようともせず、私の人生設計はいわば一時中断の状態にあったのです。兵役を終えて一市民に戻るまでの長い待ち時間という負担を少しでも軽くしようと、私は、文学、そして映画に慰みを求めていました。
 その当時、マドリッドにあったフィルモテカは固有の施設を持っておらず、外部の施設を借りてときどき映画を上映していました。当時のスペインの文化活動はとても脆弱で、わずかの有志の努力と善意で維持されている状況だったのです。ただ、そのように文化全体が生彩を欠くなかで、ときどき奇跡の力によって光明がさすときがありました。一九六四年の秋のことでした。フィルモテカが溝口健二晩年の七作品の上映を発表したときに、その光明はさしたのです。上映されたのは、『祇園囃子』(一九五三)、『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』『新・平家物語』(一九五五)、『楊貴妃』(一九五五)、そして『赤線地帯』です。
 それまでスペインで商業映画館で上映された日本映画は、黒澤明の『羅生門』(一九五〇)と、衣笠貞之助の『地獄門』(一九五三)の二本だけでした。ただ私は、一九五二年、五三年、五四年にヴェネチア映画祭で溝口の作品が受賞したという事実を通じて、溝口の名前だけは知っていました。またフランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌に掲載された、それらの作品に対する記事も読んでいました。そのいずれもが、遠く離れた日本という国に生まれた溝口監督の重要性を指摘しており、少なくとも私たち西洋人にとっては、その作品のなかに多くの宝が隠されているはずだと直感していました。そういった意味からも、スペインのフィルモテカが企画した「溝口健二週間」は、またとない機会になったのです。
 フィルモテカでの溝口映画の上映は、一日一回のみの上映で、夜十時開始。それが二週間続きました。映画は、フランス語または英語の字幕付きで上映されていましたが、溝口に対する関心の高さを証明するように、会場はいつも観客で埋まっていました。私も水兵の制服姿のまま、時間きっかりに上映会場に行っていたのですが、しかし門限の深夜十二時までに兵舎に戻らなければならない、という問題も抱えていました。その頃のフィルモテカのカタログには終了時間が正確に記されていないことが多く、だから映画が何時に終わるのか、いつも気が気ではありませんでした。もし門限までに終わらなければ軍の規則によって処罰されるからです。私の自由時間はわずか二時間だけ。それで、映画を見ながらいつも時計を気にしていました。刻々と迫る門限の時間と闘いながら、もっとも美しい結末が待ち受けているであろう溝口の映画を鑑賞しなければいけなかったのです。映画終了までの数分間、私の心は、軍隊の懲罰に対する恐れと、美しい映像の魅力の狭間で揺れ動いていました。
 そのときの私のジレンマがいかに苦しいものか、みなさんならわかってくださると思います。『雨月物語』の、源十郎(森雅之)が放蕩の末、家に戻るという結末を見ずに、どうして映画館を出ることができるでしょう? 『楊貴妃』のなかで、楊貴妃京マチ子)が玄宗皇帝(森雅之)に「陛下、お迎えにあがりました」と呼びかける声を聞かずに、いかにして席を立つことができるでしょう? そして『赤線地帯』の最後、しず子(川上康子)が扉の陰に隠れて最初の客を取るときの仕草を見ずして立ち去ることができるでしょうか? こうした状況のなかで、私は自分の軽やかさ、足の速さを信じて、運を天に任せるより他ありませんでした。
 私の兵舎は、マドリッドの中心部にある有名なシベレス広場のすぐ側の海軍省のなかにありました。場所から言えば、フィルモテカからそう遠くはありませんが、交通の接続が悪く、急ぐ人にとっては不便な場所です。まして、深夜十二時近くとあってはバスもほとんどなく、地下鉄も三十分に一本しかありません。初日に上映されたのは『祇園囃子』ですが、八十四分の上映が終わるや否や、私は会場を飛び出し、駆け出しました。タクシーに乗るお金もなく、門限まで私に残された時間はわずか十五分でしたが、門限終了ぎりぎり数秒前に兵舎に戻ることができました。
 私は、門の前でできるだけ制服を整えて、息を切らしながら身分証明書を衛兵隊長に提示しました。担当のベテラン軍曹は、私を上から下まで見ると薄笑いを浮かべましたが、何も言わずに身分証明書を私に返し、建物のなかへと通じる階段を右手の人差し指で指差しました。私はまだ震えの止まらない足で階段を上り、宿舎へ入りました。仲間はみんな寝入っていました。暗がりのなかで、私は制服も脱がずにベッドに横になり、目を閉じました。そのとき眠りにつくまで、私の頭のなかでは、エンドレステープのように溝口の映像がぐるぐる回り続けていたのです。

 多少の違いはありますが、同じようなことが三日間繰り返されました。そして溝口週間の四日目は『山椒大夫』で、上映時間は百二十四分です。こうなっては軍隊の義務と映画鑑賞の折り合いをつけることは不可能です。いくら速く走ったところで門限に間に合わないのは明らかでした。私は、映画を最後まで見ずに途中で席を立つと堅く心に誓ってなかに入りました。心のなかでは、もし『山椒大夫』が他の溝口の作品のような出来でないとすれば、途中で出たとしてもそれほど心は痛まないだろうという、かすかな期待も抱いていました。そのとき私は、溝口がどれほど間断なく卓越した監督であり続けたのかを知らなかったのです。
 そして、厨子王が安寿の死を知り、国守の任を辞して母を探しに佐渡に旅立つ場面で、私は時計を見ました。もしこのまま一分たりともこの場にとどまれば、門限に遅れてしまう時間でした。そのとき私は、映画の結末を見ずにあきらめて帰るか、あるいはそれとも軍の懲罰を受けるか、いずれかの選択を迫られたのです。私には溝口の魂がひとつの権威として現れ、懲罰を要求しているような気がしました。しかしそれが理由でそこにとどまったわけではありません。映画の感動がそうさせたのです。仏教の慈愛の象徴である観音像に導かれながら旅を続ける厨子王に心で寄り添いながら、私は映画史上もっとも美しいフィナーレのひとつを見ることができました。それは、厨子王と母の海辺での再会です。
 その晩、私はフィルモテカを出てからも走ろうともせずに、人気のない町を何時間も気にせずぼーっとした面持ちで歩いて帰りました。法の裁きを待つ犯罪人のように、懲罰を覚悟して兵舎に向かったのですが、衛兵はいつもの軍曹で、彼はここ数日間私が息せき切って帰ってきていたのを知っていました。彼は私をじっと見つめると、「こんな時間までどこで何をやっていたんだ」とはじめて私に問いただしたのです。そしてそのあと、ずるそうな、そして嫌みな笑いを顔に浮かべると「聞かなくてもわかってるけどな」と付け加えたのです。その瞬間、私は、軍曹は長年の衛兵隊長としての経験から、私が個人的な情熱、つまり恋に身を焦がしているのが原因で遅刻したと思っていると感じました。ですから私が「映画が原因なんです。映画を見ていたんです」と答えたときには、軍曹はとても落胆した様子でした。
 軍曹は真剣な表情で私を見ると、「こいつは救いようのないバカだな」というような表情を浮かべ、「何? 映画だって? 映画が原因なんだって?」と、軽蔑したようにつぶやきました。そして毅然とした態度で彼が指差したのは、宿舎に向かう階段ではなく、兵舎の厨房に直接つながっている暗い廊下でした。
 私は懲罰を受けていた他の水兵たちの隣に座って、一晩中、山のように積まれたじゃがいもの皮を剝かなければなりませんでした。このつまらない作業の最中も、溝口の映画が頭から離れず、その物語の美しさ、特にその映像が奏でる音楽、溝口が織りなす音楽を思い出していました。
 そして私はじゃがいもの皮を剝きながら、突如実感したのです。人生に勝る映画もあるのだと(原注 : 「人生に勝る」という言葉について、エリセ氏はここでニコラス・レイの映画『黒の報酬[ビガー・ザン・ライフ]』(一九五六)のスペイン語タイトルを引用している)。人生を凌駕する映画があるということは、しばしば言われていることですが、それは本当なのです。私はそのことをそのとき初めて実感しました。


ヴィクトル・エリセの証言 『朝日選書822 国際シンポジウム 溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI 2006」の記録』蓮實重彦山根貞男編 朝日新聞社 二〇〇七年五月二五日発行 一二〇〜一二五頁