(その百二十三)スシーロフ

 しかし、オシップのほかに、わたしを助けてくれた人々の中には、スシーロフもいた。わたしはこの男をわざわざさがしたわけでもなければ、頼んだわけでもない。彼のほうからいつのまにかわたしを見つけて、用を足してくれるようになったのだが、いつ、どうしてそんなふうになったのか、おぼえてもいないほどである。彼はわたしの洗濯をしてくれるようになった。獄舎の裏手に、洗濯の汚水を捨てるためにわざわざ掘られた大きな穴があった。その穴のそばに官物のたらいをおいて、囚人たちは下着を洗った。そのほか、スシーロフはそれこそ数えきれないほどのさまざまなしごとを見つけ出しては、わたしに尽すのだった。茶を沸かしたり、いろんな走り使いをしたり、何かさがしてくれたり、わたしの上着を修理に出したり、月に四回わたしの長靴に脂を塗ったり、そうしたことを、まるで神からあたえられた義務とでも思っているかのように、熱心にいそいそとやってくれた――要するに、自分の運命をすっかりわたしの運命に結びつけて、わたしのいっさいのことをわが身に引受けたのである。彼は、たとえば、「あんたにはシャツが何枚ある」とか、「あんたの上着は破れた」などとは、けっして言わず、いつも「わしらにはシャツが何枚ある」「わしらの上着は破れた」という調子だった。彼はいつもわたしの目の色をうかがっていた。職業、つまり囚人たちの言う手職というものが、彼には何もなかったので、わたしから得る小銭だけが収入だったらしい。わたしは彼にできる範囲で、つまり端金しか払わなかったが、彼はいつも不平らしい顔は見せたことがなかった。彼はだれかに尽していなければいられない男で、特にわたしを選んだのは、わたしが他の連中よりあたりがよく、勘定が正直だったかららしい。彼はいつになってもぜったいに金持になることも、身を立てることもできない連中の一人で、賭場の見張りに雇われ、一晩じゅう凍りつくような戸口に立ち通して、少佐が来はしないかと外のちょっとした気配にもきき耳をたて、ほとんど一晩じゅうの張り番でわずか五コペイカの目くされ金をもらい、しくじったりすると元も子もなくして、背中で責任をとるようなたぐいの男だった。この連中については、もうまえにふれておいた。この連中の特徴は――いつ、いかなるところにおいても、ほとんどすべての人に対して、自分というものを殺し、共同のしごとをすれば、二流どころか、三流の役割しか果たさないということである。こうした特徴が彼らには生れつきそなわっているのだ。スシーロフは極度にみじめな青年で、まったく人の言いなりで、いじけきっていて、たたきのめされたような人間だった。べつの獄内のだれになぐられたというのではないが、たたきのめされたように生れついているのだ。わたしはいつも何だか彼がかわいそうでたまらなかった。彼を見さえすれば、わたしはかならずこういう気持をおぼえたが、なぜかわいそうかときかれたら――自分でも返事に困っただろう。わたしは彼と話をすることもできなかった。彼もしゃべるのが不得手で、どうやらそれが、ひどい苦労だったらしい。だから、話を打切って、何か用をあたえるか、どこかへ使いを頼むと、とたんに元気づくのだった。わたしは、しまいに、それが彼を喜ばせることなのだと、信じるようにさえなった。彼は背丈が高くもなく、低くもなく、見てくれがよくもなく、悪くもなく、ばかでもなく、利口でもなく、若くもなく、年寄りでもなく、少しあばたがあって、少し白っぽい髪をしていた。この男について、これといってはっきりしたことは何ひとつ言うことができなかった。一つだけ言えることは、これはあくまでもわたしの感じであり、推察にすぎないが、彼はシロートキンたちの仲間に属する人間だということである。それもたたきのめされたようにいじけて、人の言いなりにばかりなっているところだけが、共通なのである。囚人たちはよく彼をからかったが、主な理由は、彼がシベリアへ護送されてくる途中で、身替りになった、それも赤いシャツ一枚と一ルーブリ銀貨一枚で身替りになったことなのである。こんなただみたいな安値で自分を売ったために、囚人たちは彼を笑うのである。身替りになるとは――だれかと名前を、したがって運命もとりかえる意味である。この事実はどんなに奇異に思われようと、たしかにそのとおりで、いまでもシベリアへ護送される囚人たちのあいだでりっぱに行われており、伝説によって神聖なものとされ、その形式も定められていた。わたしははじめどうしても信じられなかったが、結局は、それが明白な事実であることを信じないわけにはいかなかった。
 それはこういう方法で行われるのである。たとえば、ある囚人の一隊がシベリアへ護送されるとする。さまざまな囚人がいる。監獄へ行く者も、工場へ行く者も、村へ行く者も、みないっしょである。途中のどこかで、まあペルム県のあたりででも、徒刑囚のだれかが他のだれかと替りたいという気持を起す。たとえば、殺人か、何か重大な罪を犯したミハイロフという男が、何年も監獄にくらいこむのはばかばかしいという気持になる。しかもこの男はわるがしこいすれっからしで、こつを知っているとしよう。そこで彼は、同行者たちの中からなるべく鈍そうで、いじけて、口もろくにきけないような男で、わりあいに罪の軽いのをさがしはじめる。短期の工場送りか、村へ流される追放囚か、あるいは監獄行きでも、刑期が短ければかまわない。とうとう。スシーロフに白羽の矢が立てられる。スシーロフは屋敷づとめの農奴で、ただの追放囚である。彼はもう千五百露里もの長い旅をしてきたのだが、むろん一コペイカの金もない。スシーロフはぜったいに金をもてないようにできている男なのだ。彼はへとへとに疲れはてている。当てがわれる食べものだけで、おいしそうなものは匂いも嗅げない。囚人服を一枚着たきりで、わずかの金のためにみんなにこき使われている。ミハイロフはスシーロフに話しかけ、近づきになり、仲よしになりさえする、そしてついに、どこかの宿営で酒を振舞ってやる。ころあいを見て、おれと交替する気はないか、ときりだす。おれは、ミハイロフという男で、これこれこういうわけで、監獄へやられるが、普通に言う監獄とはちがって、『特別監房』とやらいうやつだ。だから、苦役とはいっても、特別と言われるくらいだから、ずっと楽なわけだ。――特別監房については、それが存在していた当時、たとえば首府ペテルブルグの関係官庁の上役たちでさえ、知らない者があったほどである。それはシベリアの僻地にある、特別に隔離された一隅で、囚人の数も少なく(わたしがいたころは七十人足らずだった)、いまではその跡を見つけるのさえ困難である。わたしは後年、シベリアに勤めていて、シベリアをよく知っている人々に会ったが、彼らはわたしから聞くまで、『特別監房』というものがあることを知らなかったという人が多い。法典にわずか六行、『シベリアに極刑者の収容所を開設するまで、重大犯人を収容するために、某々監獄に特別監房を設けるものとす』としるされているだけである。だから、スシーロフも、一行のだれも知らなかったのも、無理はない。ただ一人当のミハイロフだけが、あまりにも重い自分の罪と、そのためにもう三、四千露里も歩かされてきた事実から類推して、特別監房とはどんなところかぼんやり察していたにすぎない。どう考えても、楽な場所へやられるはずはない。スシーロフは村へ流されるだけだ。こんなうまい話はない! 「どうだ、おれと交替しないか?」スシーロフは酒がはいっているし、根が素朴で、やさしくしてくれたミハイロフにすっかり恩義を感じているから、思いきってことわれない。それに、身替りはさしつかえなく、ほかにもそういう者があるから、べつに異例なことではないと、仲間から聞かされていた。話がきまる。両親のかけらももたぬミハイロフは、スシーロフの珍しいおひとよしにつけこんで、赤いシャツ一枚と一ルーブリ銀貨一枚で彼の名前を買い、その場で証人を立ててそれを彼にわたす。あくる日になるとスシーロフはもう酔いがさめているが、また飲まされる、まあ、ことわるのもまずい。もらった一ルーブリ銀貨はもう飲んでしまったし、赤いシャツもいくらもたたないうちにもう酒に変っている。いやなら、金を返せ。だが、一ルーブリ銀貨などという大金を、いったいどこで手に入れたらいいのだ? だが、返さなければ、組合が承知をしない。これは組合できびしく監視される。それに、一度約束したら、実行しろ――これも組合の鉄則である。さもないと、ひどい目にあわされる。なぐられるだろう、あるいは、いきなりぶち殺されないともかぎらない、どっちにしろこわい目にあわされる。
 実際、こんな場合、組合が一度でも見のがしてやれば、名前をとりかえるというようなしきたりもなくなるにちがいない。約束をやぶり、金を受取っておきながら、成立した契約を破棄してもかまわないとなったら――この先いったいだれがそれを実行するだろう? 要するに――ここに組合の共通の利害があるのであり、だから囚人たちもこういうことはきわめてきびしいのである。とうとうスシーロフも、もう泣きおとせないことを見てとって、すっかり承知することにきめる。囚人たちの全員にそのむねを知らせる。そこでまだだれか話をつけておかなければならない人間があれば、それにも鼻ぐすりを嗅がせ、酒を飲ませておく。そちらは、地獄へ行くのがミハイロフであろうが、スシーロフであろうが、どうでもいいことは言うまでもない。まあ、酒は飲まされたし、ごちそうにもなったことだから、黙っていようというわけである。つぎの宿営で点呼があるとする。ミハイロフのところまで来て、「ミハイロフ!」と呼ばれると、スシーロフが、ハイと返事をし、「スシーロフ!」と呼ばれると、ミハイロフが、ハイ! と叫ぶ――そのまま点呼がつづけられる。もうだれもそんなことは言う者もいない。トボリスクで囚人たちの組分けが行われる。『ミハイロフ』は村へ、『スシーロフ』は警護を強化して特別監房へ護送される。そうなってしまったら、もうどんなに抗議してもうだである。それに、実際問題として、証明する方法があるだろうか? 取上げられたとして、きまるのに何年かかるだろう? 何か有利な証拠が出るだろうか? 最後に、証人はいるだろうか? いたにしたところで、かかわりあうまい。というわけで結局、スシーロフは一ルーブリ銀貨と赤いシャツ一枚のために、『特別監房』へ来たということになるのだ。
 囚人たちはスシーロフを笑いものにしていたが――それは彼が身替りになったからではなく(もっとも軽い罰から重い苦役に身替りになれば、どじをふんだ薄のろとして、軽蔑されるのは普通だが)、彼が赤いシャツ一枚と一ルーブリ銀貨一枚しかもらわなかったからである。あまりにも安すぎるのではないか。普通はもっと多額の金で身替りになるものだ、といっても、監獄内の金の価値から判断してだが。何十ルーブリという例さえある。ところがスシーロフときたら、まるで言いなりで、あまりに自分がなさすぎ、だれに対しても虫けらみたいで、笑うにも気がさすくらいだった。
 わたしはスシーロフとずいぶん長く、もう何年もいっしょに暮していた。しだいに彼は、わたしに強い愛着をもつようになった。わたしもそれに気付かないではいられなかかったから、わたしのほうでも彼にはすっかり気を許していた。ところがあるとき――これはぜったいに自分に許せないことなのだが――彼がわたしから金をとっておきながら、何であったか、頼んだことをやらないので、「だめじゃないか、スシーロフ、金だけとって、やることをやらんでは」ときびしくとがめたことがあった。スシーロフは何も言わず、急いでわたしの用事を果たしてくれたが、どうしたわけか急にふさぎこんでしまった。そのまま二日ほどすぎた。わたしは、まさかわたしがあんなことを言ったからではあるまい、と思っていた。アントン・ワシーリエフという囚人が、わずかばかりの借金の返済をしつこく彼に迫っていたのを、わたしは知っていた。きっと、金はないが、わたしに頼むのもぐあいがわるく、くさくさしているのだろう。三日目にわたしは彼に言った、「スシーロフ、金を借りたいんだろう、アントン・ワシーリエフにせっつかれて? そら、これを持ってきなさい」。そのときわたしは板寝床の上に腰かけて、スシーロフはそのまえに立っていた。わたしのほうから彼の苦しい立場を思い出して、金を持ってくようにすすめたので、彼はひどく驚いたらしい。ましてこのごろは、彼は自分でもあまり借りすぎたと思って、もうこれ以上は当てにできないと困っていた矢先だったから、なおさらである。彼は金を見て、それからわたしを見ると、不意にくるりと背を向けて、出ていった。これにはわたしもすっかり呆気にとられた。彼のあとを追って出てゆくと、獄舎の裏のほうにいた。彼は監獄の柵のそばにたたずみ、杙に片手でもたれて、額をおしつけていた。「スシーロフ、どうしたんだね?」とわたしは訊ねた。彼はこちらを見ようとしなかった。そして、いまにも泣きだしそうな様子なのに気付いて、わたしは思わずはっとした。「あんたという人は、アレクサンドル・ペドローヴィチ……なさけねえ……」と彼はこちらを見まいとつとめながら、とぎれとぎれの声で言いはじめた。「おれがあんたに尽すのは……金のためだなんて……おれは……おれは……そんなじゃねえんだ!」そう言うと彼はまた、額がごつんとあたったほど、急に柵の方へ顔を向けて――わっと泣きだした!……わたしは監獄へ来てはじめて、人間が泣くのを見た。わたしはやっと彼をなぐさめた、そしてそのとき以来彼は、もしそういうことが言えるとすれば、いままでよりもいっそう熱心にわたしに尽すようになり、『わたしの世話』をしだしたが、わたしは彼の顔をほとんどとらえられないようなかすかな表情から、わたしがとがめたことに対して、彼の心がぜったいにわたしを許すことができなかったことに気付いたのである。ところが、他の囚人たちが彼を嘲笑ったり、何かといえばからかったり、ときにはこっぴどく罵ったりしても――彼は結構仲よく暮して、けっして怒ったりしなかった。たしかに、長年のあいだつきあっても、人間を見きわめることはむずかしいものである!

ヒョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー死の家の記録』工藤清一郎訳 新潮社(新潮文庫版)昭和四八年七月三〇日発行 一三一〜一四〇頁