(前編)だれもだまされてはいない 松本人志『R100』(2013)

『R100』(2013)は映画である。だから、われわれは決してだれもだまされてはいない。
「ビジュアルバム」や「寸止め海峡」の世界観を映画館で再体験できるという期待に胸を膨らませ、先の三度の裏切りにも関わらず未だに諦めきれない「松本信者」特有の腑に落ちない態度はもう止めよう。第一作『大日本人』(2007)にダウンタウン特有の楽屋落ちすれすれなモキュメンタリー気質の確かな痕跡を発見したのに小躍りして、『しんぼる』(2009)には対決&罰ゲームシリーズの「チキチキ 第1回 ガキの使いやあらへんで!! 落ちれば地獄が待っている! タライアン・ルーレット対決〜!」(もちろん、視覚上の類似でいえば「ビリビリコンセント」も忘れてはならない)、出演者目録を見るまでもなく『さや侍』(2011)には「働くおっさん劇場」のまだ陽の昇らない早朝に見たテレビの残像をあてがったはいいものの、『R100』には対応物が見つからないのに腹を立て、唯一可能性のある年末特番の「笑ってはいけない」シリーズを思い浮かべてみたのはいいものの、テレビの前ではいざ知らず肝腎の劇場ではそれほど笑えないのはなぜなのかと暗闇のなかで疑心暗鬼の自問自答をつづけるのはもう止めよう。またもや登場した寿司ネタから、サスケ→わさび寿司ロシアンルーレット対決→しんぼる→そして、R100という次第に貧困にかつかぼそくなるラインを辿り、海外映画祭向けの松本人志の発言を鵜呑みにして、外人向けのコテコテのギャグ(固定観念によって展開される)と内地向けのコテコテなギャグ(マエ振りによって展開される)はなぜこうも分かりあえないのかというあの桂枝雀二代目を悩ませ、桂小文治が賢明にもすり抜けたあとは松本人志ただひとりしか追求していないマイナーな難題に白煙を上げるのはもう止めよう。松本人志が追求したふたつの両天秤である話芸と映画という両輪はこれまでも、そしてこれからも決して釣り合うことはないだろうという溌剌とした諦念から、松本人志のひと言の切れ味のあまりの鋭さを目撃するたびに、映画の演出は彼の口舌には決して競り勝つことはないだろうというある種の安堵で自分をだますのはもう止めよう。SとMをめぐる考察のあまりの浅薄さにあきれ果てたのもつかの間に、いや、究極のSはMにつながり究極のMはSにつながるという松本人志のテーゼは、彼が以前に述べた文句のひとつ、「いちばん多くの笑い声を聞いた耳でありたい」という彼の宣言につながり、結局のところ、笑いの理論の延長としてこの映画を楽しむことができるのだなどと興味深くないわけではない類推にさまようのはもう止めよう。先行する映画作家北野武との恒例の比較から、「監督バンザイ」を挙げるまでもなく映画監督に「出世」する芸人の自意識にはもう飽き飽きとしているがひょっとしたらあの松本人志ならあるいはと期待しては裏切られて映画館をあとにするというもう何度もくり返した都会の夜の空気の冷たさで涙を拭うのはもう金輪際止めにしよう。『さや侍』で天才松本人志が初めてデクパージュに遭遇した最初の五分間の思いがけない感動の余韻から、高須光聖をはじめとする取り巻きの放送作家たちとついに訣別して見出された『R100』のラストの掘建て小屋の場面に対してそわそわしながら、セルゲイ・エイゼンシュテインが五作目の『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)で到達した映像と音楽の幸福な一致に、映画監督松本人志はたったの4作目で踏破したのだ――しかも、デ・パルマは観ていてもエイゼンシュタインなど一度も観ることなく――と所在なさげな震え声でつぶやくだけでは飽き足らず、それにあの偉大なロベルト・ロッセリーニだって『イタリア旅行』(1953)の撮影現場でジョージ・サンダースをのけ者扱いしたものだと余計な映画史的記憶を召喚し、こうした撮影現場にフィクション的な状況を持ち込み、俳優を孤立させることで生まれる演出効果を松本人志が『さや侍』の野見高明に対して試したときも、やはり松本人志はそうした映画史的な振る舞いに対してまったく無自覚であったにちがいないのだなどと念を押すのももう止めにしなければならない。
『R100』。くり返すが、この作品はバラエティー番組でもなければコントやビデオ作品でもなく、2時間近い上映時間を備えた、間違いなく映画と呼ばれうるものなのだ。
 確かにこの映画は、あらゆる動機を欠いているという点で分析を拒む作品である。動機を欠く映画を作る監督の動機に対する分析手段もないわけではないが、そんなスノッブな態度でこの作品を分析するのはふさわしくないし、自意識というのはおうおうにして後戻りのできない狭隘な路でしかない。大森南朋がSMに開眼したきっかけも理由となるエピソードもいちども語られていないからといって、それはこの映画の欠点ではない。というのも、松本人志にとって興味があるのは、不在の原因とその究明といったありきたりなドラマではなく、おそらくはまだ彼自身しか手にしていない物語の鉱脈――だれにも共感できない悩みを抱える男という、およそ筋らしい筋は必要ないシチュエーションコメディのテーマ――を探り出すという行為が、いったいだれに求められうるのかという、作品の主題とその興行形態が必然的に含まれる包括的な問題系だからだ。この「必要とされていない男」でもなければ「いてもいなくてもいい男」でもなく、ただ「共感されない男」という問題系は、『大日本人』においての主要な問題系である「なぜニッポン国では正義のヒーローが外部からやってくるのか」(①「屠殺業への忌避感情」、②「正義の外注――すなわち正義の希求者とその遂行者との分裂による伝統的な二枚舌的権力構造」、③「短小な身体的コンプレックスの裏返しである巨大化願望」という三つの純日本的価値観の複雑な混合の分析)や、『しんぼる』における「神のみが遊ぶことができる、ただし人間の名のもとで」と比べると、問いを形成するまでにはいたっていないように見えるかもしれない。『さや侍』においてようやく前景化された「共感されない男」の主題は、「共感されない男がついに共感されるにいたった話」という風に変形されることによって、より一般的な物語の類型(家族愛)に収まるかに見えた。しかし、これは松本人志の基本的な戦略であり、「一般的な主題の裏に潜行する真の主題」というシナリオ形式上の構成はこれら前3作に共通して見られるものである。すなわち、松本人志はさまざまに主題や調子を替えた作品を撮っているように見えながら、じつはつねにひとつの主題だけを追いつづけているのだ。『R100』では「SとMの相克」という耳目を引く主題系に潜行するかたちで、ふたたび「共感できない男」の物語が語られる。では、それはいかにしてか?
 動機の不在ということでいえば、『大日本人』の佐藤が大佐藤になる原因の不在とその装飾的コント(佐藤の拉致の暗室撮影場面から神主によるお清めの場面にいたる)が強調していたのは、虚実のドキュメンタリー性というよりはむしろ、ドキュメンタリーという枠組みそのものがもつ虚実性についてであった。この場面では、とってつけたようなSWATの突入シーン風の演出やお祓いをする神主を捉える報道番組風のよく動くカメラワークが、大佐藤を呼び出すためにまったく無意味な儀式を行っているというシナリオ上の主題を阻碍するまでに至っている(そうした儀式的振る舞いが徒労のように見えるためにはロングショットで撮らなければいけない)。だが、実際にそれが阻碍ではなく、つまり彼が撮ろうとしていたのはモキュメンタリー風の現実を演出が差配するという彼が築き上げてきた世界観などではなく、まさにそれらを阻碍しているように見える過剰な演出の部分であるとしたらどうか。この問いは、なぜ松本人志はあれほどCGを多用するのかという問いともつながる。松本人志が、北野武以降もっとも着ぐるみを多用した役者であり構成作家であることはよく知られている。(しかも、バラエティーにおいてではなくてコントにおいてである。この傾向は、着ぐるみが「コスプレ」に駆逐されるまでつづいた)『大日本人』の怪物たちは着ぐるみでつくられてもよかったのだが、彼はそうしなかった。そうした方がずっとビジュアルバムの世界観に近づけるのにもかかわらず。ここには、テレビのコント番組よりも大きな予算を映画では使えるという興行的な側面以上のものを含んでいるように思われる。というのも、テレビで放映されるドキュメンタリーの3要素――バッググラウンドミュージック、重要な要素を選別して繰り返すテロップ、全ての要素を解説するアウトボイス――が、松本人志の映画では、主要な構成要素になっているからだ。
コントの最良の意味でのおとぎ話的な約束事の世界観は、映画監督松本人志にとっては長いことテレビ的な編集技術に宿っていた。つまり、あるカットとカットのつなぎではなく、いわばスタジオという密室を視聴者の情緒的な反応を先取りするようなエフェクトで埋める技術的処理のことを、彼は編集と呼ばれる技法だと思っていた(実際、テレビのテロップは発言よりも早く画面に表れるため、あたかも発言者が決められた台本を読んでいるような印象が強化される)。これは、バラエティー番組にテロップが表示されるようになった時代――まだそれは、スーパーインポーズを真似た控えめな演出だったが、いまから考えればそれは視聴者への配慮という悪循環に陥っていくテレビの凋落を示す確かな兆候のひとつであった――から意識的に文辞を短いフレーズにしぼり、口から発することばをテレビ画面に表示される文字とそのサイズに沿うようごく簡略な形容詞に限定していった松本人志の適応性に、いったんはその理由を求めることができる。その制約のなかでこそ、松本人志特有の言語表現である状況の置き換え・着眼点のずらし(視覚的イメージ)、擬音・引き笑い・放屁(触覚的イメージ)、言い間違え、聞き間違え(聴覚的イメージ)の妙が発揮されることになるのだが、彼が映画を撮りはじめるようになってからも、こうした彼自身の出自による技術的な成果をそのまま映画に持ちこむようなことはしなかった。むしろ、松本人志の映画に頻出するのはそのような内的な鍛錬の成果(彼のことばによると、視聴者に「絵を描いてもらわなきゃいけない」笑いの技術)というよりは、番組を構成する編集要素のなかでも外的な要素、すなわち画面上で展開されるエフェクトを、映画という舞台でより実践的に取り扱おうとしているように思われるからだ。むろん、松本人志の映画では常に台詞がテロップとして表示されるわけではない。通常映画にテロップが用いられるのは日付の提示や物語の世界を要約する説話技法としてだが、松本人志の場合はそうではない。むしろ、テレビの主意主義を全面に出すような演出――別の人間による内的独白のアウトボイス、必殺技のテロップ、インタビュー形式の人物紹介といった、登場人物と登場人物のあいだを埋める糊づけ――のために用いている。むろん、これらの画面外の演出とでもいったものは、映画において初めて使われた技術である。これらをテレビの演出上の特徴といったのは、そのような技術体系の蓄積というよりは、その経済原則のためである。別人による内的独白のアウトボイスは、個人の内的葛藤という独自性を脱色して一般的な処世訓や保身術に落ち着くような効果を演出するために用いられ、テロップは主題や世界観を構成する要素というよりは厳密な意味で番組の放送枠内におさめるために用いられ、インタビュー形式の人物紹介は、単に配役上の焦点化に用いられることになる。これらの技術は、あくまでテレビ番組で培われた特殊な応用大系である(その編集方針に含まれる過酷さは、おそらくは「テレビに出演した者」にしかわからないだろう)。そして、テレビでは一般的になされている編集技術がなんの説明もなしに映画に持ちこまれると、われわれはどこか居心地が悪くなるものである。そこには画面上の配慮が台無しにされ、カメラと役者との自然な距離感が失われてしまうからだ。映画がなによりも観察の技法として存在する以上、そのような見る者に先入観を植えつける効果は、映画館のような閉鎖的な環境ではきわめて不快に感じられるものである。そこではからずも、松本人志は監督である彼自身もまた「共感されない男」のひとりとして、テレビ的な演出を説話上の要請から用いるというよりは、ジャンルのちがいによって生まれる異化効果を偏愛しているために、「テレビ的演出」を断片的に用いていると考えられる。事実、インタビュー場面は『大日本人』でも『R100』でも用いられており、その不自然さは作を追うごとに増しているといっていい。松本人志の演出方法には、往々にして登場人物と観客の安定した距離をかき乱すことによって、物語の設定や主人公の心情を追うことが困難になる瞬間がある。『大日本人』における怪物たちの戦闘シーンのひとつを取ってみても、そこには闘いらしい闘いはなにひとつ描かれておらず、むしろ巨大化した大佐藤と海原はるかをはじめとする怪物たちが実際に闘いはじめるとどこかしら居心地の悪い気持ちになり、やれCGがなってないとかこの既視感はなんだとか騒ぎ立てるはめにもなるのだが、そうした印象を通り越して考えてみればすぐさまわかるのは、松本人志は闘いの場面を確かに撮ろうとしているが、それでも彼の関心はそこにはないという動かし難い事実である。では、彼はいったいなにを撮ろうとしているのだろうか?
 こうして分析を進めていくと、前述したビートたけし松本人志の着ぐるみのちがいは、たんにバラエティーとコントといった枠組みのちがいを越えて、別種の意味を持ってくるように思われる。ビートたけしの着ぐるみは、あくまで彼の行動イメージの延長として現れていた。彼の着ぐるみは、無法なことをしでかす合図であり、無法なことにおびえ、取り乱す周囲の人間の狼狽や困惑を楽しむ表徴のいいであった。そこから敷衍していえば、北野武の映画の演出は、なによりも行動イメージの確かさに裏づけられており、抑制された演出のうちにわれわれには主人公が「なにをなすべきか?」がはっきりと分かるかたちになっていた。一例を挙げよう。『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)では、ごみの収集車が海辺の道路を走っている場面がある。カメラは収集車が回収しなかったサーフィンボードを前景に、走り去る収集車を後景に捉える。その映像を見ながら観客は、やがて収集車が止まり、助手席の男が走り出してくるのが予測できる。このように、行動とそれをもたらす状況が一致しているのが、北野武の映画の演出の基本として存在する(これは、演出法としてはイタリアのネオレアリスモによって決定的な変更を加えられるまでつづいた極めてオーソドックスなものである)。この考えは彼の着ぐるみについてもあてはまるだろう。一方松本人志の場合はどうかというと、彼の映画では一貫して、主人公がなにかをするが、それに対する世界の返答が定かではない状況を描いてきたといえる。この分析は、同様に松本人志のコントの着ぐるみの活用にも敷衍できる。着ぐるみは、主人公の動きを束縛する。周囲の人間は、これまで隠していたサディスティックな感情をむき出しにして着ぐるみをきた男を取り囲み、足蹴にする。そこにあるのは完全な支配の関係であり、着ぐるみは不の要素でしかない。彼のコントで見ることのできる馬の死骸の着ぐるみや妊娠した半魚人の着ぐるみなどは、まさに動きを制限された状況で真価を発揮するために制作されたといえる。
 松本人志の芸歴におけるコントから話芸へのゆるやかな移行については、演者が動きを拘束されてゆく過程として考えることができる。そのなかで松本人志の根本にあるのは、「絵を思い浮かべること」である。馬の死骸を来た松本人志は、その大きな着ぐるみゆえにほとんど動くことができない。なんとか立とうとするが、その着ぐるみはもともと横に寝た状態を想定して制作されてあったために、一本しかない後脚がふらつきすぐに倒れてしまう。子供役の浜田雅功今田耕司がそれを見てはやし立て、死骸の馬はなおのこと憤激する……。こうした演出上の配慮は、後年松本人志が映画を撮りはじめた瞬間まで生きながらえ、現在にいたるまでつづいているといえる。「絵を思い浮かべる」ためには、逆説的なことに、絵を想起させる要素は少なくなければならない。なぜなら、絵を想起させる要素が多すぎると、それは絵そのものになってしまい、そもそも思い浮かべる必要がないからだ。動けないことによって生まれる笑いは、常に均衡のなかにしか存在しないゆえにいつでもあたらしい。演者と視聴者のイメージの媒介に関わる松本人志の数々の言辞は、「絵を思い浮かべる」という共同作業を正確になぞっている。着ぐるみも、そうした笑いの媒介要素のひとつとして存在している。つまり、松本人志のコントにおける着ぐるみは、なんらかのイメージの視覚化というよりは、ある根本的な問いを問わずにおくことによって生まれる居心地の悪さを表現するための媒介として存在しているのだ。なぜ、馬の死骸は生きているのか。こうした問いを子供役の浜田雅功たちは、問おうにも問うことができない。なぜなら、馬の死骸はちゃんと動いて話しているのだから。この分析は、CGについてもあてはまるだろう。一概に松本人志のCGの多用を批判できないのは、彼がそれを何のために使っているのか、われわれにはまだ未知数だからなのだ(劇中でなんども見られる、大森南朋の顔が膨らんで波紋のように波打つのはなぜか、私はいまだに説明できない。あれは快楽の表情を表すために用いていると本当にいえるだろうか?)。そして、仮にそのことで居心地の悪い笑いが生まれないとしても、彼の演出は分析するに値する。なぜなら、現代の映画に一般的に用いられるようになった技術をそのように使ったものはまだ存在していないのである。一般的に、CGは物理的に(経済的にであれ、演出的にであれ)再現不可能な描写を行うためになされるものとされている。松本人志の映画においても、この定義はほぼあてはまるように思われる。しかし、あの劇中なんども繰り返される顔の波紋は、この定義の埒外にある。そして、この演出は確かに彼の「共感されない男」の主題と結びついているはずである。顔の波紋は、Mの気質がある男だけが見せる恍惚の表情である。それは、暴力を振るわれた直後に見られることもあれば、暴力の予告や帰宅する電車のなかでの余韻として登場することもある。それらに共通しているのは、快楽の所在なさげな放出でもなければ快楽の一方通行性でもない(そうであれば、それはSの側に対しても見られるはずだ。むろん、Sの側に共通する演出は、その際限のない繰り返し、逆戻しと再生を慌ただしく繰り返す画面処理に現れており、そういう意味でいえば波紋のCGと対になっているということはできる。しかし、この対比はいまだ不徹底であるといわざるをえない)。むしろ、顔の波紋が表すのは端的に、意志と快楽の分離とでもいえる現象であるにすぎない。つまり、ここでは「共感されない」という主題、『R100』においては、「秘密のSMクラブに入会したはいいものの、あまりに過激なプレイがつづいて脱会を申し込むが、それもプレイの一環と受けとられざるをえない」というかたちではっきり定式化された主題は、主人公の自分自身への配慮の不在という問題に直結することによって、別種の流れをかたちづくっている。大森南朋扮する男は、自分の快楽に「共感できない」のだ。自分の快楽に「共感できない」ことが別種の快楽を生むのかどうかについてはだれにもわからない。ひとはそのように自分をだますことなどできないし、だまそうとすることもできない。だが、そのような問いはほとんど意味をなさないがゆえに「共感できない」だろう。そして、「共感できない」ことは、大きな価値をもつ。なぜなら、「共感できない」ことは、松本人志の映画においては、いつでもなにかがはじまる合図であるからだ。